遣隋使
概要
「日出づる処の天子」の国書を送った。対等を主張し、隋の煬帝を怒らせたと伝わる。
場所
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
関わった人(1)
聖徳太子AD574年–AD622年 · 派遣本文
589年、隋が300年近く分かれていた中国を一つにした(隋の中国再統一)。北の王朝と南の王朝が並び立つ時代が終わり、大きな統一国家が東アジアの真ん中に現れた。朝鮮半島の高句麗、百済、新羅は、それぞれ使いを送って隋との関係を結び直した。海の東の倭も、この変化を見過ごせなかった。
倭からの最初の使いは、600年に隋に着いた。このことは日本の『日本書紀』には書かれておらず、中国の歴史書『隋書』にだけ記されている。隋の初代の皇帝文帝が倭の政治の様子を尋ねると、使者は、倭王は天を兄とし日を弟とし、夜明け前に政務を執って、日が昇ると弟に任せる、と答えた。文帝は、それは道理に合わないと言って改めるよう諭したという。倭の政治の仕組みが、統一国家の目から見れば遅れたものに映ったことを、この記事は伝えている。

その後の数年、倭では国の仕組みづくりが急に進む。603年には、家柄ではなく個人に冠の色で位を与える冠位十二階が定められ、604年には役人の心得を説いた憲法十七条が作られたと『日本書紀』は書く。推古天皇のもとで、聖徳太子と蘇我馬子が政治を担っていた時期である。隋と向き合うための準備だったと考えられている。
607年、小野妹子が使いとして隋へ渡った。皇帝は2代目の煬帝に替わっていた。妹子が差し出した国書は、日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、という書き出しで始まっていた。日が昇る東の国の天子が、日が沈む西の国の天子に手紙を差し上げます、お変わりありませんか、という意味である。
中国の考え方では、天子は天命を受けた中国の皇帝ただ一人だった。周りの国の王は、皇帝に貢ぎ物を捧げ、王の位を授けてもらう立場にある。その相手に向かって、自分も天子だと名乗り、対等の言葉で手紙を書いた。『隋書』によれば、煬帝はこれを見て不快を示し、外交を担当する役人に、蛮夷の書に無礼なものがある、二度と取り次ぐな、と言った。
日出づる処、日没する処という言い方そのものは、仏典にも見える東と西の言い換えにすぎず、相手を見下したものではないとする説もある。問題は、むしろ「天子」の語を並べたことにあったとみられる。
それでも隋は、倭を突き放さなかった。翌608年、煬帝は裴世清という役人を使いとして倭に送り、妹子もともに帰国した。隋はこのころ、北の高句麗を討つ準備を進めていた。高句麗の背後にあたる海の東の国と、わざわざ事を構える理由は無かったと考えられている。煬帝は実際に612年から、百万を超えると号する大軍で高句麗に攻め込むことになる。
『日本書紀』は、妹子が帰りの途中、百済で隋の皇帝からの返書を奪われたと報告したと書いている。朝廷では妹子の罪を問う声も出たが、推古天皇は許した。返書の内容が倭に不都合なもので、妹子があえて隠したのではないかと推測する研究者もいるが、確かなことは分からない。
同じ608年、妹子は裴世清を送ってふたたび隋へ渡った。このとき『日本書紀』が伝える国書は、東の天皇、敬みて西の皇帝に白す、と書き出している。皇帝の語を相手に、天皇の語を自分に使い分けた形で、この国書が「天皇」の称号の古い用例の一つとして議論されることがある。ただ、『日本書紀』は後の時代に編まれたもので、文面がそのまま当時のものかには疑問も出されている。
このときの使いには、学問を修めるための留学生と僧が同行した。高向玄理、南淵請安、旻といった人々で、彼らは隋が滅び唐が立つ(唐の成立)のを現地で見届け、20年から30年あまりも学んで帰国した。帰国した旻や南淵請安のもとには、中大兄皇子や中臣鎌足ら若い人々が学びに通ったと伝えられる。645年に始まる大化の改新では、高向玄理と旻が国博士に任じられ、新しい国の制度づくりに加わった。倭の側の狙いは、隋から王の称号をもらうことではなく、制度と学問を持ち帰ることにあった。
遣隋使は、数え方によって3回から6回とされ、614年の犬上御田鍬の派遣が最後になった。618年に隋が滅ぶと、630年からは遣唐使が送られるようになる(遣唐使の中止)。
『隋書』と『日本書紀』の記述には、ほかにも食い違いが多い。『隋書』は倭王の名を「多利思比孤」とし、妻がいると書く。当時の天皇は女性の推古天皇だったから、これを誰とみるかで議論が絶えない。どちらの書も、自分の側に都合のよい形で書いている。それでも二つを突き合わせると、統一された大国と向き合い、その制度を学びながらも、その下に完全には入るまいとした小さな国の姿が浮かび上がってくる。