壬申の乱

概要
天皇の弟と子が争い、弟が勝った。勝った側が権力を集め、律令と歴史書の編纂を進める。「天皇」の語が使われはじめるのもこの前後になる。
場所
34.69°N 135.79°E · 日本・奈良県
本文
7世紀後半の倭国は、外からの危機の中にあった。663年、百済を助けて朝鮮半島に送った軍が、唐と新羅の連合軍に大敗した(白村江の戦い)。唐の侵攻を恐れた天智天皇(中大兄皇子)は、西日本に山城や水城を築き、667年には都を飛鳥から近江の大津へ移した(近江大津宮への遷都)。翌年に即位した天智は、全国の戸籍を作らせ、近江令と呼ばれる法を整えたとされる。国の仕組みを中央に集める改革が、急ぎ足で進められていた。
天智には、同じ母を持つ弟の大海人皇子がいた。兄が中大兄皇子と呼ばれた若いころからその政治を支え、天智の後継者とみられていた。ところが天智は晩年、自分の子の大友皇子を太政大臣に任じ、政治の中心に据えた。大友は母の身分が低かったが、才気にあふれた若者だったと伝えられる。
671年の秋、病の重くなった天智は大海人を枕元に呼び、後を託そうとした。大海人はこれを罠と見たのか、病を理由に辞退し、大友に譲るよう勧めた。その場で髪を剃って出家し、わずかな供を連れて吉野の山へ退いた。人びとは、虎に翼をつけて野に放つようなものだ、と噂したと日本書紀は記している。その年の12月、天智は亡くなった。
672年の6月下旬、大海人は吉野を出た。近江の朝廷が兵を集め、吉野への道をふさごうとしている、という知らせを受けたからだとされる。妻の鸕野讃良皇女(のちの持統天皇)や幼い子らを連れ、従う者は数十人にすぎなかった。一行は夜通し歩いて伊賀を抜け、伊勢へ入った。途中、近江を脱出してきた長子の高市皇子や大津皇子が合流する。大海人は伊勢の国司らを味方につけ、美濃の兵に命じて不破の道を押さえさせた。これで、近江の朝廷と東国のあいだの道が断たれた。東国の兵は、大海人の側に集まることになった。
不破に本営を置いた大海人は、指揮を高市皇子に任せた。軍は二手に分かれ、一方は琵琶湖の東岸を南へ攻め下り、もう一方は大和へ入った。大和では大伴吹負が飛鳥の古い都を奪い、近江方の反撃に苦しみながらも持ちこたえた。7月下旬、湖の南の瀬田の大橋で最後の大きな戦いがあり、近江の軍は崩れた。大友皇子は逃れたが、行き場を失い、自ら命を絶った。挙兵からおよそ1か月の内乱だった。
翌673年、大海人は飛鳥の浄御原宮で即位した。天武天皇である。大きな戦いで朝廷の有力な豪族たちが敗れ、あるいは力を失ったため、天武は大臣を置かず、皇族を中心に自ら政治をとった。戦いで勝ち取った権威を背景に、改革は一気に進んだ。684年には八色の姓を定めて豪族を新しい序列に組み直し、律令の編纂に着手した。この法は天武の死後、飛鳥浄御原令として施行され、やがて大宝律令へとつながる。
天武は、国の成り立ちを記す歴史書の編纂も命じた。皇室の系譜と古い言い伝えを整理させたこの事業が、のちの古事記(『古事記』の完成)と日本書紀(『日本書紀』の完成)の出発点になったとされる。「天皇」という称号と「日本」という国号が使われはじめたのも、天武・持統の時代と考えられている。飛鳥の遺跡からは「天皇」と書かれた天武の時代の木簡が見つかっている。勝った側が、自分たちの正統を書き残す仕組みを作ったことになる。
天武は686年に亡くなった。その直後、有力な皇子の大津皇子が謀反の疑いで死を命じられ、皇后が即位して持統天皇となる。持統は夫の計画を受け継いで、本格的な都城である藤原京を完成させた。

大友皇子は、日本書紀では天皇として扱われていない。即位したかどうかは古くから議論があり、明治時代の1870年になって弘文天皇の名が贈られた。勝った側が書いた歴史の中で、負けた側の姿がどう扱われたのか。壬申の乱は、日本の古代国家の形を決めた戦いであると同時に、そのことを考えさせる戦いでもある。