現金掛け値なし
概要
それまでの呉服商は、屋敷へ反物を担いで行き、客の身分を見て値を決め、代金は盆暮の掛け払いである。焦げ付きを見込んで値を高くするしかない。三井高利は駿河町の店で、店頭売り、現金払い、そして値札による一物一価に切り替えた。誰が来ても同じ値である。さらに、一反を必要な分だけ切って売り、その場で仕立てた。回転が上がり、値を下げられる。同業から激しく妨害されたが、繁盛した。三越の前身であり、いまの小売の形の、早い一例である。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
関わった人(1)
三井高利AD1622年–AD1694年 · 始めた本文
江戸時代の初め、大きな呉服商の商いは、店先ではなく客の屋敷で行われた。手代が反物を担いで武家屋敷や大きな商家を回り、座敷に広げて見せ、注文を取る。これを屋敷売りという。あらかじめ注文を受けて品を届けるやり方もあった。代金はその場では受け取らず、盆と暮れの年二回、あるいは年に一度、まとめて払ってもらう掛け売りだった。
値段は決まっていなかった。客の身分や懐具合を見て、あの家ならこれくらい、と決める。初めに高めの値を言い、駆け引きをしながら負けていく掛け値の商いが当たり前だった。この売り方には困ったことがいくつもあった。掛けで売った代金は、焦げ付くことがある。とりわけ武家は、払いが滞っても身分が上なので強く取り立てられない。だから商人は、取りはぐれを見込んで値を高くしておく。きちんと払う客が、払わない客の分まで負担することになる。しかも代金が入るのは半年先で、そのあいだ商人の金は寝ている。

この慣わしを壊したのが、三井高利(三井高利、1622〜1694年)である。伊勢の松坂に、質屋と酒屋を営む家の末の子として生まれた。母の殊法はとりわけ商才にたけた人だったと伝えられる。14歳で江戸に出て、長兄が本町に開いていた呉服の店で働き、めきめきと腕を上げた。だがその才はかえって兄に警戒され、28歳のとき、母の世話を理由に松坂へ呼び戻された。
それから20年余り、高利は松坂で金貸しなどを営みながら機を待った。江戸や京都の商いのようすを集め、息子たちを江戸へ修業に出した。1673年、長兄が亡くなると、52歳の高利はついに江戸の本町一丁目に呉服の店、越後屋を開き、京都には仕入れのための店を置いた。
越後屋は、それまでの常識と違う売り方で勝負した。客に店まで来てもらい、並べた品を見て選んでもらう。代金はその場で現金で受け取る。値は品ごとに決めておき、誰が来ても同じ値で売る。「現金掛け値なし」である。1683年、店を日本橋の駿河町に移すと、この商いを大きく打ち出し、「現金安売り掛け値なし」と記した引札(ちらし)を江戸の町に大量にまいた。日本で大がかりな商業の宣伝が行われた早い例とされる。
この売り方には、いくつもの利点があった。現金で受け取るので焦げ付きが無く、売った金をすぐ次の仕入れに回せる。商品の回転が速くなれば、一つ一つの儲けを薄くしても商売が成り立ち、値を下げられる。正札で売るので、客は駆け引きに時間を取られず、だまされる心配もない。身分の高い客にも町人にも、同じ品は同じ値である。
越後屋はさらに、それまで一反単位でしか売らなかった反物を、客の要る分だけ切って売った。これで、羽織の裏地や子どもの着物のための少しの布も買えるようになった。店には仕立ての職人を大勢抱え、急ぎの客には、その日のうちに仕立てて渡した。店の中では、手代が絹や木綿など品の種類ごとに受け持ちを分け、帳簿と金の出し入れと仕入れも別々の者が扱った。大きな店を、分業で効率よく回したのである。
新しい商いは、同業から激しい反発を受けた。商いの道に外れるとして仲間から締め出され、嫌がらせも受けたと伝えられる。仕入れ先に圧力がかけられたため、越後屋は京都の自前の店から直接品を仕入れて、問屋の締め付けをかわした。それでも客は越後屋に集まった。俳人の宝井其角が「越後屋にきぬさく音や衣更(ころもがえ)」と詠んだように、反物を裂く音が絶えない繁盛ぶりは、江戸の名物になった。
高利は呉服と並んで、金融にも乗り出した。1683年に両替の店を開き、1691年には幕府の公金を大坂から江戸へ送る御用を引き受けた。幕府が大坂で受け取った年貢米の代金などを、現金を運ぶ代わりに為替で江戸へ届ける仕事である。為替は都市のあいだの決済を支える古い仕組みだが(為替手形)、三井はこれを使って、大坂で預かった公金を江戸に納めるまでの一定の期間、手元で運用することができた。事実上、大きな運転資金を無利子で使えたことになる。呉服と両替は互いを支え合った。大坂の堂島の米市場に代表されるように、江戸時代の商人は、米と金と為替を組み合わせた高度な取引の仕組みを育てていった。

高利が1694年に世を去ると、息子たちは家業を分けずに守る道を選んだ。1710年には、一族の全ての店と財産をまとめて管理する大元方を設け、各家は持ち分に応じて取り分を受け取る形にした。1722年の家訓では、財産を分けて散らしてはならないことや、店の経営を有能な者に任せることが定められた。こうした家の仕組みは、三井が長く続いた理由としてよく挙げられる。
越後屋は、幕末から明治への大きな変わり目も、幕府と新しい政府の双方と関わりながら乗り切った。1876年には三井銀行が生まれ、呉服の店は1904年に三越呉服店となって、日本で初めて百貨店を名乗る宣言を出した。いまの三越の始まりである。
値札が付いていて、誰が買っても同じ値で売られる。いまの私たちには当たり前のことだが、それが当たり前になったのは、そう古いことではない。ヨーロッパやアメリカでも、正札で売る大きな店が広まるのは19世紀のことである。17世紀の江戸の呉服屋が始めた売り方は、200年後に世界の都市に現れる百貨店やセルフサービスの店(セルフサービス)と同じ方向を、早くから向いていた。