人物

孝謙天皇(称徳天皇)

Empress Kōken / Shōtoku
AD718年 – AD770年(享年52・推定)
日本重要度 3

概要

聖武と光明の娘で、女性で唯一の皇太子から天皇になった。譲位して、また戻った。僧の道鏡を法王にし、皇位を継がせようとして止められた。死後、女性天皇は850年途絶える。

所属

日本

関わったできごと(1)

宇佐八幡神託事件AD769年 · 天皇

本文

718年、聖武天皇と光明皇后の娘として生まれた。名は阿倍内親王という。父母の間に生まれた男子・基王は727年に生まれたが、1歳に満たずに死んだ。聖武にはほかに県犬養広刀自との間に安積親王がいたが、母方の藤原氏は、自分たちの血を引く皇位継承者を望んだ。738年、阿倍内親王は21歳で皇太子に立てられた。女性が皇太子になったのは、日本の歴史の中で後にも先にもこのときだけである。

749年、聖武が位を譲り、阿倍内親王は32歳で即位した。孝謙天皇である。独身のままの即位で、皇位を継ぐ子はいなかった。752年には、父の悲願だった東大寺の大仏の開眼供養が、孝謙の時代に盛大に行われた(大仏開眼)。

政治の実権を握ったのは、母の光明皇太后と、その甥の藤原仲麻呂だった。仲麻呂は皇太后のために置かれた紫微中台の長官となり、太政官をしのぐ力を振るった。757年、仲麻呂の専横に反発した橘奈良麻呂らが仲麻呂を除こうとしたが、計画は漏れ、多くの皇族や貴族が拷問の末に死に、流された。翌758年、孝謙は仲麻呂が後ろ盾となっていた大炊王に位を譲った。淳仁天皇である。孝謙は上皇となり、仲麻呂は「恵美押勝」の名を賜って、太政大臣にまで上った。

760年、光明皇太后が死んだ。仲麻呂の最大の後ろ盾が消え、上皇と仲麻呂、淳仁の関係は冷えていった。761年、近江の保良宮に滞在していたとき、上皇は病に倒れた。看病に当たったのが、河内の弓削氏出身の僧・道鏡だった。上皇は回復し、道鏡を深く信頼するようになる。淳仁天皇がこれを諫めると、上皇は激しく怒った。

762年、平城京に戻った上皇は、淳仁とは別の寺に住み、群臣を集めて宣言した。日々の祭祀と小さな政事は今の天皇が行えばよい。国家の大事と賞罰の二つは、私が行う、と。位を退いた上皇が、天皇から政治の権限を取り上げると言い放ったのである。

764年9月、追い詰められた仲麻呂は兵を集めて反乱を企てた(藤原仲麻呂の乱)。だが上皇の側が先に動き、天皇の命令に欠かせない駅鈴と天皇の印を押さえた。仲麻呂は都を逃れて近江から越前へ向かおうとしたが、先回りされて道を断たれ、琵琶湖の西岸で一族とともに斬られた。淳仁は位を奪われて淡路へ流され、翌年、逃げ出そうとして捕らえられ、まもなく死んだ。

藤原仲麻呂の乱に関わる図版:Sakanoue no Karitamaro Drawing His Bow LACMA M.84.31.256
藤原仲麻呂の乱Wikimedia Commons Tsukioka Yoshitoshi (Japan, 1839-1892) · Public domain

上皇は再び位に就いた。重祚して称徳天皇となる。一度位を退いた天皇が再び即位したのは、7世紀の斉明天皇に続いて二度目だった。称徳は道鏡を太政大臣禅師とし、766年には「法王」という前例のない地位に就けた。法王の待遇は天皇に準じ、道鏡の一族も次々と高い位に上った。仏教で国を治めるという理想を、称徳は道鏡とともに追ったのである。仲麻呂の乱が平定されると、称徳は四天王の像をまつる西大寺を建てた。

同じ764年、称徳は乱の死者を弔うため、高さ20センチほどの木製の小塔を100万基作らせ、その中に印刷した陀羅尼の経文を納めて、十の大寺に分けて置いた。770年に完成したこの「百万塔陀羅尼」は、法隆寺などに今も多く残る。作られた年代がはっきりしている印刷物としては、世界で最も古いものの一つである。

769年、九州の宇佐八幡宮から、道鏡を天皇の位につければ天下は太平になる、という神のお告げが伝えられた(宇佐八幡神託事件)。称徳は、真意を確かめるために和気清麻呂を宇佐へ遣わした。帰ってきた清麻呂が伝えた神託は、逆のものだった。わが国では、君臣の分は定まっている。天皇の位には、必ず皇族を立てよ。無道の者は早く払い除け、と。称徳は激怒し、清麻呂の名を「別部穢麻呂」と改めさせて大隅に流した。だが道鏡が皇位に就くことは、ついに無かった。この事件の背後に誰がいたのか、称徳が本当に道鏡に位を譲るつもりだったのかについては、今も議論が分かれている。

770年、称徳は病に倒れた。病床に近づけたのは女官の吉備由利だけで、道鏡すら遠ざけられていたとする記録もある。8月、称徳は53歳で死んだ。跡継ぎは定められていなかった。藤原永手や藤原百川らの貴族たちは、天智天皇の孫で62歳の白壁王を立てた。光仁天皇である。道鏡は下野の薬師寺へ追われ、そこで死んだ。光仁の子が、やがて平安京を開く桓武天皇になる。

壬申の乱以来100年近く続いた天武天皇の血筋の皇位は、ここで途絶え、天智の系統に移った。そして称徳のあと、女性の天皇は江戸時代の1629年に明正天皇が即位するまで、850年以上現れなかった。道鏡をめぐる事件は、女性が皇位に就くことへの警戒として、後世に長く語られることになる。だが、生涯独身で皇位を継ぐ子を持たないことを初めから定められた天皇が、仏教に国の支えを求めたこと自体は、その時代の流れの中にあった。

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