天智天皇(中大兄皇子)
概要
蘇我入鹿を宮中で斬り、大化の改新を始め、20年皇太子のまま政治を執った。白村江で負け、都を近江に移し、最初の戸籍を作り、水時計を置いた。死の床で弟に位を譲ろうとし、弟は出家して吉野へ逃げた。翌年、壬申の乱。
所属
日本関わったできごと(2)
近江大津宮への遷都AD667年 · 天皇漏剋AD671年(天智10年)4月25日 · 時を知らせ始めた本文
626年に生まれた。父は舒明天皇、母は宝皇女で、のちに皇極天皇として即位し、さらに斉明天皇として二度目の位につく女性である。名は葛城皇子といい、中大兄皇子は「大兄(皇位を継ぎうる皇子)の中の二番目」といった意味の呼び名とされる。生まれた頃の朝廷では、大臣の蘇我氏が大きな力を握っていた。曽祖父の代から天皇家と婚姻を重ねてきた家である(蘇我稲目)。

643年、蘇我入鹿は、聖徳太子の子の山背大兄王を攻めて一族ごと自害に追い込んだ。皇位の行方まで蘇我氏が決める勢いだった。危機を感じた若い中大兄に近づいたのが、中臣鎌足である。『日本書紀』は、法興寺の蹴鞠の場で中大兄の脱げた沓を鎌足が拾って差し出したのが二人の出会いだったと伝える。二人は儒学の師のもとへ通う道すがら、入鹿を倒す計画を練ったという。
645年6月12日、飛鳥板蓋宮で、朝鮮の三国から貢ぎ物が届いたことを天皇に奏上する儀式が開かれた。入鹿も参列した。上表文を読む役の蘇我倉山田石川麻呂は、斬り手が出てこないので、汗を流し声を震わせた。斬る役を命じられた者たちが入鹿を恐れて動けずにいると、中大兄が自ら飛び出して斬りつけた。驚いた母の皇極天皇が何事かと問うと、中大兄は、入鹿は皇族を滅ぼして皇位を傾けようとしている、と答えた。入鹿はその場で殺され、翌日、父の蝦夷も館に火を放って自害した。この政変を、干支の名をとって乙巳の変と呼ぶ。

皇極天皇は位を退き、弟の孝徳天皇が立った。中大兄は皇太子となり、実権を握った。都は難波に移され、翌646年、改新の詔が出されたと『日本書紀』は伝える。土地と人を豪族の私有から国のものにし、地方の行政の区分を作り、戸籍を作って田を分け与え、税の仕組みを整える、という内容である(大化の改新)。ただし書紀に載る詔の文には、のちの大宝律令の言葉で書き直された部分があることが分かっていて、この時点でどこまで実行されたかは議論が続いている。
中大兄は、邪魔になる者を容赦なく除いた。649年には、乙巳の変の功労者だった石川麻呂を謀反の疑いで攻め、自害させた。653年には難波にとどまる孝徳天皇を置き去りにして、母や皇后(中大兄の妹)、役人たちを連れて飛鳥へ戻った。孝徳は翌年、難波で孤独のうちに亡くなった。母が再び即位して斉明天皇となる。658年、孝徳の子の有間皇子が謀反の疑いで捕らえられた。中大兄に問いただされた19歳の皇子は、天と赤兄が知っている、私は何も知らない、と答えたと書紀は伝える。赤兄は皇子をそそのかした男である。皇子は処刑された。

660年、朝鮮半島で百済が唐と新羅の連合軍に滅ぼされた(百済の滅亡)。百済の遺臣たちは倭(日本)に援軍と、倭にいた百済の王子の帰国を求めた。斉明天皇と中大兄は、自ら九州に下って援軍の準備をした。661年、斉明天皇は筑紫の朝倉宮で亡くなった。中大兄は即位しないまま政治を執り続けた。これを称制という。663年、倭の水軍は朝鮮半島西岸の白村江で唐の水軍に大敗した(白村江の戦い)。
敗戦のあと、中大兄が恐れたのは唐と新羅の侵攻だった。664年、九州の大宰府の前に長大な土塁と堀(水城)を築き、対馬や壱岐、筑紫に防人と烽(のろし台)を置いた。百済から逃れてきた人々の技術を使って、西日本の各地に朝鮮式の山城を築かせた。667年には都を内陸の近江の大津に移した(近江大津宮への遷都)。飛鳥の豪族たちの反発は強く、人々は遷都をそしったと書紀は記す。翌668年正月、中大兄はようやく即位した。42歳だった。

天智天皇の治世は短かったが、国の形を作る仕事が続いた。670年、全国の人々を初めて一斉に記録した戸籍を作った。その年の干支から庚午年籍と呼ばれ、のちのちまで氏や身分を確かめる台帳として、永久に保存すべきものとされた。日本で最初の体系的な法とされる近江令を定めたとも言われるが、本当にあったかどうかは議論がある。皇太子のころには、水時計(漏刻)を作らせた。671年に新しい台に据えて時を知らせたと書紀にある日付が、いまの6月10日の時の記念日の元になっている。669年、病の重い鎌足に最高の冠位と藤原の姓を与えた。藤原氏の始まりである。
晩年、皇位の継承が問題になった。弟の大海人皇子は長く政治を支えてきたが、天智は息子の大友皇子に継がせたいと考え、671年に大友を太政大臣にした。その年の秋、病床に大海人を呼んで後を託そうとしたが、大海人は罠を疑って辞退し、その場で出家して吉野へ去った。天智は671年12月(新暦672年1月)、近江で亡くなった。46歳だった。半年後、大海人は吉野で兵を挙げ、大友皇子を倒した(壬申の乱)。天智の娘の一人は大海人の妃となり、のちに持統天皇として即位する。

天智天皇は歌人としても知られる。『万葉集』には、香具山と耳成山が畝傍山をめぐって争ったという伝説を詠んだ長歌が中大兄の作として載る。一方、『小倉百人一首』の第一首に置かれた、秋の田の仮小屋で夜露に袖を濡らすという歌は、もとは『万葉集』にある作者の分からない歌が、のちに天智の作として伝えられたものと考えられている。平安時代の天皇家は天智の子孫であり、天智は自分たちの祖として重んじられた。百人一首の巻頭に置かれたのも、そのためだと言われる。