藤原良房
概要
皇族でない最初の太政大臣、最初の摂政。娘を天皇に嫁がせ、9歳の孫を即位させた。応天門の変で政敵を退け、摂関政治の型を作る。
所属
日本関わったできごと(3)
承和の変AD842年(承和9年)7月 · 仕組んだと考えられる藤原良房の摂政AD858年 · 摂政応天門の変AD866年(貞観8年)閏3月 · 摂政に本文
藤原良房は804年、藤原北家の藤原冬嗣の次男として生まれた。藤原氏は奈良時代に四つの家に分かれて争っていたが、平安時代の初め、冬嗣は嵯峨天皇の信任を得て、天皇の側近の長である蔵人頭となり、北家の地位を一気に高めた。810年、嵯峨天皇と兄の平城上皇が対立した薬子の変で、蔵人頭が新たに置かれたのである。

若い良房は、嵯峨天皇にその才を見込まれた。天皇は、娘の源潔姫を良房の妻とした。潔姫は皇族の籍を離れて源の姓を名乗っていたが、天皇の娘が臣下に嫁ぐのは異例のことだった。良房の妹の順子は、嵯峨の子の仁明天皇の后となり、道康親王を産んだ。
842年、嵯峨上皇が死ぬと、その2日後、皇太子の恒貞親王に仕える伴健岑と橘逸勢らが謀反を企てたとして捕らえられた(承和の変)。恒貞親王は皇太子を廃され、代わりに良房の甥である道康親王が皇太子に立った。この事件で、大伴氏の流れをくむ伴氏と橘氏が力を失い、良房は大納言に進んだ。事件の真相ははっきりしないが、最も得をしたのが良房だったことは確かである。
850年、道康親王が文徳天皇として即位した。良房は娘の明子を后として入れており、その年に明子は惟仁親王を産んだ。良房は、生まれて8か月の惟仁親王を皇太子に立てた。文徳には、すでに紀氏の娘の産んだ年長の惟喬親王がいて、天皇はこの皇子を愛し、跡を継がせたいと願っていたと伝えられる。だが、外祖父の良房の力に逆らうことはできなかった。
857年、良房は太政大臣に任じられた。律令の最高の官職で、皇族ではない者が生前にこの職に就いたのは、良房が初めてである(奈良時代の道鏡の例は除く)。翌858年、文徳天皇が32歳の若さで急に死に、惟仁親王が9歳で即位した。清和天皇である。それまで、これほど幼い天皇が位に就いた例は無かった。外祖父の良房が、幼い天皇に代わって政治を執った(藤原良房の摂政)。もっとも、このとき摂政に任じるという正式な命が出たかどうかは記録の上ではっきりせず、良房の摂政の始まりを858年とみるか、次に述べる866年とみるかで、研究者の見方は分かれている。
866年閏3月、平安京の大内裏の正門である応天門が、夜のうちに炎上した(応天門の変)。大納言の伴善男は、左大臣の源信が火をつけたと訴えた。だがその後、ある下級役人の訴えから、伴善男とその子が放火の犯人とされ、伊豆へ流された。名門の伴氏は、これで政界から退いた。紀氏の官人たちも連座した。この事件のさなかの8月、良房は清和天皇から、天下の政を摂り行え、という命を受けた。皇族ではない者が正式に摂政となった、最初の例とされる。真相はいまも分かっていない。12世紀の『伴大納言絵巻』は、炎上する門と、逃げまどう人々を生き生きと描いている。

良房には男子がいなかった。彼は兄の長良の子の藤原基経を養子として跡継ぎとし、基経の妹の高子を清和天皇の后に入れた。高子の産んだ皇子は、のちに陽成天皇となる。良房の政治の時代には、宮廷の儀式や法令の整備が進み、869年には陸奥で大きな地震と津波が起きている(貞観地震)。
良房は和歌も残している。『古今和歌集』には、娘の明子の前に桜の花が生けてあるのを見て、年を取って老いてしまったが、この花を見ていると何の物思いもない、と詠んだ歌が採られている。花に重ねたのは、天皇の母となった娘の栄えであり、それは自分の栄えでもあった。邸宅の染殿にちなんで、明子は染殿の后と呼ばれた。

872年、良房は69歳で死んだ。死後、忠仁公と諡された。基経は良房の路線を引き継ぎ、のちに初めての関白となった。
娘を天皇の后として入れ、生まれた皇子を幼いうちに即位させ、外祖父としてその代わりに政治を執る。良房が作ったこの型が、その後の藤原氏の力の源になった。ほかの貴族の家は、承和の変や応天門の変のような政争の中で、一つずつ退けられていった。この型が最も完成した姿を見せるのが、基経の玄孫にあたる藤原道長の時代である(摂関政治の頂点)。