桓武天皇
概要
百済王家の血を引く母から生まれ、奈良の寺の力を切るために長岡へ、それから平安京へ都を移した。蝦夷を三度攻め、坂上田村麻呂に阿弖流為を降らせた。最澄を支え、「軍事と造作」をやめて死んだ。
所属
日本関わったできごと(1)
平安京遷都AD794年 · 天皇本文
737年に生まれた。名は山部王。父の白壁王は天智天皇の孫だったが、当時の皇位は天武天皇の子孫が継いでいて、天智系の王族は政争を避けて目立たないように暮らしていた。母の高野新笠は、渡来系の和氏の出で、百済の武寧王の子孫と称していた。『続日本紀』に記されたこの系譜は、2001年に当時の天皇が誕生日の記者会見で触れ、日韓の両国で話題になった。母の身分が低かったので、山部は本来、皇位とは縁遠い立場だった。山部が生まれた年は、天然痘の流行で藤原四兄弟が相次いで死んだ年でもある。

運命が変わったのは、770年である。孝謙天皇(称徳天皇)が後継ぎを決めないまま亡くなり、宮廷の実力者だった藤原百川らは、62歳の白壁王を天皇に立てた。光仁天皇である。皇后は聖武天皇の娘の井上内親王で、その子の他戸親王が皇太子になった。天武系の血を引く皇后と皇太子がいることで、新しい天皇の正統性が支えられていた。このとき山部は30代半ばだった。
ところが772年、井上皇后は天皇を呪ったとして皇后の位を奪われ、他戸親王も皇太子を廃された。翌773年、山部が皇太子に立てられた。775年、母子は幽閉先で同じ日に亡くなった。死因は記されていない。山部を擁立した藤原百川の謀略だったと考える研究者は多い。

781年、山部は父から位を譲られて即位した。桓武天皇である。44歳だった。同母弟の早良親王を皇太子にした。桓武がまず手をつけたのは、都を移すことだった。平城京には大きな寺々が建ち並び、僧たちが政治に口を出していた。道鏡が皇位をうかがった事件(宇佐八幡神託事件)はまだ記憶に新しかった。天武系の王朝の都である平城京を離れ、自分の王朝の新しい都を築きたいという思いもあったと見られる。784年、桓武は山背国の長岡に都を移した。淀川の水運に恵まれた土地だった。
翌785年、長岡京の造営を指揮していた藤原種継が、夜の工事の見回り中に矢で射殺された。捕らえられた者の中に皇太子の家政機関の役人がいたことから、早良親王も関与を疑われた。早良は無実を訴えて食を断ち、淡路へ流される途中で亡くなった。遺体はそのまま淡路に送られて葬られた。桓武は自分の子の安殿親王(のちの平城天皇)を皇太子に立てた。
その後、桓武の身辺で不幸が続いた。夫人の藤原旅子、母の高野新笠、皇后の藤原乙牟漏が相次いで亡くなり、皇太子の安殿は病に伏し、疫病と洪水が都を襲った。占わせると、早良親王の祟りだと出た。桓武は淡路に使いを送って墓を祀らせ、800年には早良に崇道天皇の名を贈った。怨霊を鎮めるための祀りは、こののち平安時代を通じて、朝廷の大事な務めになっていく。
長岡京の造営は10年近く続いたが、完成しなかった。793年、桓武は和気清麻呂らの意見を入れて、長岡の北東、葛野の地に新しい都を造ることを決めた。794年10月、桓武は新しい都に移り、その名を平安京とした(平安京遷都)。人々が「平安の都」とたたえたからだという。山背国も、山に囲まれて城のようだとして山城国と改めた。平安京は、こののち明治の初めまで千年あまり、天皇の住む都であり続けた。
都づくりと並ぶ桓武のもう一つの大事業が、東北地方の蝦夷の征討だった。789年、紀古佐美の率いる大軍が北上川の流域の胆沢に攻め込んだが、蝦夷の指導者阿弖流為に巣伏の地で大敗した。794年の遠征では、副将の坂上田村麻呂が功を上げた。797年、田村麻呂は征夷大将軍に任じられ、801年の遠征で胆沢一帯を制圧した。翌802年、胆沢城が築かれ、阿弖流為は仲間の母礼とともに500人あまりを率いて降伏した。田村麻呂は二人を都に連れて行き、命を助けて故郷に戻せば蝦夷を治める役に立つと訴えたが、公卿たちは、野性の者を放てば再び背くと退け、二人は河内で斬られた。
都の造営と蝦夷との戦いは、国の財政と人々の暮らしを圧迫した。805年、桓武は宮中で二人の参議に、天下の政治の良し悪しを論じさせた。藤原緒嗣は、いま天下が苦しんでいるのは軍事と造作(造都)である、この二つをやめれば民は安らぐ、と述べた。菅野真道は反対した。桓武は緒嗣の意見を採り、平安京の造営と蝦夷の征討を打ち切った。徳政相論と呼ばれるこの議論で、桓武は自らの二大事業に区切りをつけたのである。
桓武は仏教にも新しい流れを求めた。奈良の大寺院から距離を置く一方で、比叡山で修行していた最澄を重んじた。804年、遣唐使の船で最澄と空海が唐に渡った(最澄と空海の入唐)。翌年帰国した最澄は、病の重い桓武のために祈り、806年には天台宗が国に公認された。桓武の死の直前のことである。地方の政治を立て直すために国司の交代を監督する役所を置き、農民からの兵の徴発をやめて地方の有力者の子弟を兵とする制度に改めるなど、律令の仕組みを実情に合わせて作り変えることにも取り組んだ。
806年3月、桓武は亡くなった。70歳だった。墓は伏見の柏原に営まれた。皇位は平城天皇、次いで嵯峨天皇と、桓武の子たちに受け継がれた。1895年、平安遷都から1100年を記念して京都に平安神宮が創建されると、桓武はその祭神として祀られた。千年の都を開いた天皇として、いまも毎年10月の時代祭で記念されている。