聖徳太子
概要
冠位十二階と十七条憲法を定め、隋へ使者を送った。仏教を国づくりの柱に据える。
関わったできごと(3)
冠位十二階AD603年(推古11年) · 定めた憲法十七条AD604年(推古12年)4月 · 作ったと伝える遣隋使AD607年 · 派遣本文
聖徳太子と呼ばれる人物は、574年、用明天皇の皇子として生まれたと伝えられる。生前の名は厩戸(うまやど)で、母が宮中を見回っていて厩の戸に当たった拍子に生まれた、という話が『日本書紀』に載っている。父も母も、大きな力を持つ豪族蘇我氏の血を引いていた。父方からも母方からも、蘇我稲目の曾孫にあたる。
6世紀の倭では、朝鮮半島から伝わった仏教を受け入れるかどうかをめぐって、蘇我氏と、古くからの神々の祭りを重んじる物部氏が対立していた。587年、蘇我馬子は物部守屋を攻め滅ぼした(蘇我氏と物部氏の戦い)。『日本書紀』は、この戦いに14歳ほどの厩戸が加わり、白膠木で四天王の像を刻んで髪に挿し、勝たせてくれれば寺を建てると誓ったと書く。大阪の四天王寺は、その誓いから建てられたと伝えられている。

592年、馬子は崇峻天皇を殺させ、厩戸の叔母にあたる推古天皇が位に就いた。記録に残る最初の女性の天皇である(推古天皇の即位)。『日本書紀』によれば、翌593年、厩戸は皇太子となり、天皇に代わって政治を任された。ただ、実際の政治は、天皇と大臣の馬子、そして厩戸の三人が力を合わせて行ったものと見る研究者が多い。
このあと、飛鳥時代の改革として教科書に並ぶ事績が続く。603年、家柄ではなく働きによって役人の位を与える冠位十二階が定められた。翌604年には、和を以て貴しとなす、で始まる憲法十七条を、厩戸自ら作ったと『日本書紀』は記す。役人たちに、争わず、仏教を敬い、天皇の命令に従うよう説いた心構えの文である。

中国では、589年に隋が南北を統一していた。600年、倭は隋に使いを送った。このことは中国の歴史書『隋書』にだけ記されている。使いは倭の政治のやり方を尋ねられて答えたが、隋の皇帝に、筋が通らないと言われ、改めるよう諭されたという。607年には、小野妹子が国書を携えて隋へ渡った(遣隋使)。日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、という書き出しで知られる国書で、『隋書』は、皇帝の煬帝がこれを見て不快に思ったと伝えている。対等の立場をうかがわせる言葉が、無礼と受け取られたのである。それでも隋は翌年、使いを倭に送り、留学生や僧が隋に渡って学ぶ道が開かれた。
厩戸は仏教に深く帰依した。601年ごろ、飛鳥から離れた斑鳩に宮を建てて移り住み、その隣に寺を建てた。のちの法隆寺である。法華経などの三つの経典に注釈を加えた書物『三経義疏』は、厩戸が書いたものと伝えられてきたが、中国で作られたものを持ち込んだのではないかとする説もあり、決着していない。620年には馬子とともに、天皇の系譜や国の歴史をまとめる書物の編纂を始めたとされるが、その書物は残っていない。

厩戸の死について、法隆寺の金堂の釈迦三尊像の背後に刻まれた銘文は、622年2月22日と伝える。前の日には妃が亡くなり、病に倒れた厩戸の回復を願って、妃や王子たちがこの像を造らせたという。一方、『日本書紀』は621年の2月と書き、年がずれている。妃が死を悼んで作らせた刺繍の帳、天寿国繡帳には、世の中は虚しく仮のもので、ただ仏だけが真実である、という意味の言葉が、厩戸の口ぐせとして縫い込まれている。
厩戸の死から21年後の643年、その子の山背大兄王とその一族は、蘇我入鹿に攻められ、斑鳩の寺で自ら命を絶った。厩戸の家は絶え、2年後には蘇我氏の本家も大化の改新の始まりとなる事件で滅びる。

厩戸についての記録の多くは、死から約100年後の720年に完成した『日本書紀』の完成による。その同じ書物が、厩戸は生まれてすぐに言葉を話し、一度に十人の訴えを聞いて少しも誤らず、未来のことまで見通した、と書いている。国の正史を作った人々が、理想の皇子の像を描こうとしたことは間違いない。どこまでが事実で、どこからが後の時代の理想化なのかを分けるのは難しい。
聖徳太子という呼び名も、本人が生きていた時代のものではない。8世紀の半ばの書物に初めて現れ、やがて広く使われるようになった。平安時代以降、太子は日本に仏教を広めた聖者として信仰を集め、親鸞のように太子を深く敬う僧も現れた。寺を建てた人として、大工や職人の守り神とされたこともある。近代には何度も紙幣の肖像となり、高額の紙幣の代名詞になった。

1990年代には、聖徳太子の事績のほとんどは後の時代の創作だとする説が出され、大きな論争になった。だが、法隆寺の像の銘文のような、ほぼ同時代のものと考えられる資料もあり、厩戸という皇子がいて、推古朝の政治や仏教の興隆に深く関わったこと自体まで否定するのは行き過ぎだ、とする見方が多い。2017年、学校の学習内容の改訂案で、呼び名を厩戸王を中心とするものに改める案が示されたが、反対の声が多く、聖徳太子の名が残された。一人の皇子の名をどう呼ぶかが、歴史をどう語るかの問題になっている。