概要
いまの青森市の丘の上に、縄文時代の人々がおよそ1700年にわたって暮らし続けた大きな集落があった。1992年、野球場を造る工事の前の調査で、その跡が姿を現した。地面を掘り下げて屋根をかけた竪穴住居の跡は数百にのぼり、長さ30メートルを超える大きな建物の跡や、直径1メートルの栗の柱を6本立てた巨大な建物の跡も見つかった。人々は栗の林を育て、魚や木の実を食べ、遠くの土地と翡翠や黒曜石をやりとりしていた。狩猟採集の暮らしでも、人は一か所に長く定まって住めたことを、この集落は示している。
場所
40.81°N 140.70°E · 青森県青森市
本文
縄文時代の人々は、土器を作り、弓矢で獣を狩り、木の実を集め、魚を獲って暮らした(縄文土器)。農耕を始める前の狩猟採集の人々は、獲物を追って移り住み、小さな集まりで暮らしていたと、長く考えられてきた。
青森市の郊外の三内丸山には、江戸時代から土器が出ることが知られていた。1992年、青森県は、この丘に県営の野球場を造ることを決め、工事の前に発掘の調査を行った。掘り進めると、予想をはるかに超える規模の集落の跡が次々に現れた。1994年、巨大な建物の柱の跡が見つかると、県は野球場の建設を取りやめ、遺跡を残すことを決めた。
調査で分かった集落は、紀元前3900年ごろから紀元前2200年ごろまで、およそ1700年にわたって営まれていた。地面を掘りくぼめて柱を立て、屋根をかけた竪穴住居の跡は、時代を通じて数百棟分が見つかった。長さが30メートルを超える、大きな竪穴の建物もあり、集まりや共同の仕事の場だったと考えられている。とりわけ人々を驚かせたのは、直径1メートル前後の栗の木の柱を、4.2メートルずつの間隔で6本立てた、巨大な建物の跡だった。どんな建物だったのかは分かっていないが、高い櫓のようなものとして復元されている。
人々は、集落のまわりに栗の林を育て、その実を主な食べ物にしていた。遺伝子の調べから、栗は人の手で選ばれ育てられていたことが分かっている。海や川の魚、獣の肉、木の実も食べた。漆を塗った器、編んだ籠、土偶、ヒスイの玉も見つかった。ヒスイは新潟の糸魚川から、黒曜石は北海道や長野から運ばれてきたもので、遠い土地の人々との行き来があった。墓は道の両側に列をなして並び、子どもは土器に入れて葬られた。
三内丸山の発見は、狩猟採集の暮らしでも、人は豊かな自然の恵みを管理しながら、一か所に長く定まって住み、大きな共同体を営めたことを示した。2021年、三内丸山遺跡は、北海道と北東北の縄文時代の遺跡群の一つとして、世界遺産に登録された。