人物

道鏡

Dōkyō
? – AD772年
日本重要度 2

概要

河内の弓削氏の僧。孝謙上皇の病を癒して寵を得、太政大臣禅師、法王になった。宇佐八幡の神託で皇位を求め、和気清麻呂に阻まれた。天皇の死後、下野に流された。

所属

日本

関わったできごと(1)

宇佐八幡神託事件AD769年 · 法王

本文

道鏡は、河内国若江郡、いまの大阪府八尾市のあたりに本拠を持つ弓削氏の出身である。弓削氏は、古代の有力な氏族物部氏の流れをくむと伝えられていた。生まれた年は分からない。若いころ、大和と河内の境にそびえる葛城山にこもって修行し、梵語、つまりインドの古い言葉にも通じていたと、正史の『続日本紀』は記している。法相宗の高僧義淵に学んだとも伝えられる。やがて宮中の仏堂に仕える僧の一人となり、看病や祈祷に当たる禅師となった。

道鏡
道鏡Wikimedia Commons Kikuchi Yōsai · Public domain

道鏡の運命が大きく変わったのは、761年のことである。この年、孝謙上皇(孝謙天皇(称徳天皇))が近江の保良宮で病に倒れた。看病の祈祷に当たった道鏡に、上皇は深い信頼を寄せるようになった。当時の朝廷では、上皇から位を譲られた淳仁天皇と、その後ろ盾で太政大臣にまで上った藤原仲麻呂が政治を握っていた。淳仁天皇が上皇に道鏡を遠ざけるよう諫めると、上皇は激しく怒った。762年、上皇は出家した身でありながら、小さな政治は天皇が行い、国家の大事と賞罰は自分が行う、と宣言し、天皇と仲麻呂の側と正面から対立した。

764年、追い詰められた仲麻呂は兵を挙げたが、敗れて殺された(藤原仲麻呂の乱)。淳仁天皇は位を奪われて淡路に流され、上皇がふたたび位について称徳天皇となった。道鏡の地位はここから急上昇した。乱の直後に大臣禅師、翌765年には太政大臣禅師、さらに766年には法王の位を授けられた。法王には専用の役所が置かれ、その暮らしや乗り物の格は天皇に準じるものとされた。弟の弓削浄人は異例の速さで出世して大納言となり、一族の多くが高い位に取り立てられた。

藤原仲麻呂の乱に関わる図版:Sakanoue no Karitamaro Drawing His Bow LACMA M.84.31.256
藤原仲麻呂の乱Wikimedia Commons Tsukioka Yoshitoshi (Japan, 1839-1892) · Public domain

称徳天皇と道鏡は、仏教の力で国を治めようとした。仲麻呂の乱を鎮めるために発願した四天王の像をきっかけに、平城京の西に西大寺が建てられた。東の東大寺と並ぶ、大きな寺である。道鏡の故郷の河内の弓削には由義宮が造られ、769年には西の京と呼ばれるまでになった。百万の小さな塔を造り、その中に印刷したお経を納めて諸寺に配ったのも、称徳天皇の時代である。だが、寺や宮の造営は国の財政を圧迫し、道鏡の一族の出世には、貴族たちの反発が強まっていった。

769年、九州の宇佐八幡宮から、道鏡を皇位につければ天下は太平になる、という神のお告げが届いた(宇佐八幡神託事件)。称徳天皇は、神意を確かめるために和気清麻呂を宇佐へ遣わした。清麻呂が持ち帰った答えは、正反対のものだった。わが国では君と臣の別はすでに定まっている、天皇の血筋でない者を皇位につけてはならない、というのである。怒った天皇は清麻呂の名を改めさせて南九州へ流した。だが、道鏡が皇位につくことは、これでなくなった。

称徳天皇像(住吉広保筆、西大寺蔵)
称徳天皇像(住吉広保筆、西大寺蔵)Wikimedia Commons Sumiyoshi Hiroyasu · Public domain

翌770年8月、称徳天皇が亡くなった。道鏡は天皇の陵のそばに庵を結び、その死を悼んだ。だが、後ろ盾を失った道鏡に、もはや力はなかった。藤原氏を中心とする貴族たちは、天智天皇の孫である白壁王を立てて光仁天皇とした。天皇の死からわずか半月ほどで、道鏡は下野国の薬師寺の別当に任じられ、都から遠ざけられた。下野薬師寺は、東国の僧に戒律を授ける戒壇が置かれた大寺だったが、事実上の追放だった。『続日本紀』は、陵の土もまだ乾かないうちに、ひそかに悪だくみをめぐらせていた、と道鏡を厳しく書いている。2年後の772年、道鏡は下野で亡くなり、庶民として葬られた。弟の浄人らも土佐へ流された。

道鏡の名は、その後、悪名として語り継がれた。平安時代の初めに書かれた仏教の説話集『日本霊異記』には、道鏡と称徳天皇の関係をあからさまにほのめかす話が収められ、のちの説話や江戸時代の川柳は、それをさらに下品にふくらませた。皇位をねらった悪僧、女帝をたぶらかした怪僧、という道鏡の姿は、こうして作られていった。

由義宮旧址碑(大阪府八尾市 由義神社)
由義宮旧址碑(大阪府八尾市 由義神社)Wikimedia Commons Saigen Jiro · CC0

だが、確かなことは多くない。称徳天皇が本当に道鏡に皇位を譲ろうとしたのか、道鏡自身がそれを望んだのか。宇佐の神託を持ち込んだのは、道鏡におもねった九州の役人だったのか、道鏡その人の意を受けた者だったのか。あるいは、のちに道鏡を追い落とした側が、事件の筋書きを都合よく書いたのか。研究者の間でも見方は分かれている。『続日本紀』をはじめ、道鏡について書いた記録は、すべて道鏡が敗れたあとに、勝った側の人々によって書かれたものである。近年は、称徳天皇が仏教にもとづく新しい王のあり方を模索し、その中で道鏡を法王としたのだ、という見方も示されている。

いま、栃木県下野市には下野薬師寺の跡があり、近くの寺には、道鏡の墓と伝えられる塚が残っている。かつて、律令の国家を揺るがせた僧は、都から遠く離れたこの地で、ひっそりとその生涯を終えた。

動画(1)

027 孝謙・淳仁・称徳・光仁天皇の時代 日本史ストーリーノート第04話Historia Mundi ムンディ先生高校の日本史を200講で通す講義の第27講「孝謙・淳仁・称徳・光仁天皇の時代」
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