できごと

条里

The jōri grid
AD8世紀
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民唐突厥ツングース系の人びと吐蕃吐蕃渤海ウイグルカルルク高句麗タイ系の諸王国日本Nan-Zhaoアイヌ新羅ヒンドゥーの諸国真臘チャンパドヴァーラヴァティーAD8世紀平城京
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD8世紀の版図を描いています(19勢力)。

概要

律令の国家が、田を格子に区切った。一辺が六町(約六百五十メートル)の里を並べ、その中をさらに一町ごとの坪に分ける。何条何里何坪と言えば、どの田かが特定できる。班田収授のためには、誰にどの田を与え、死ねば返させるかを台帳で管理しなければならず、そのためには土地に住所が要った。日本で最初に、地面そのものに番地を振った制度である。班田の仕組みは早くに崩れたが、格子は残った。奈良盆地や讃岐の平野の道と畦は、いまも千三百年前の線をなぞっている。

場所

平城京
34.69°N 135.79°E · 日本・奈良県

本文

律令の国家が田を格子に区切ったのは、班田収授を回すためだった。六年ごとに戸籍を作り、六歳以上の男女に口分田を与える。男には二段、女にはその三分の二。そして死ねば国に返させる。これを実際にやろうとすると、誰がどの田を持っているかを書き留めなければならず、その田がどこにあるかを言葉で指し示せなければならない。六年ごとの入れ替えのたびに現地へ行って杭を打ち直していたのでは、とても追いつかない。「川の向こうの大きな木のそばの田」では台帳にならない。土地に住所が要った。

そこで引かれたのが条里の格子である。まず六町四方の大きな升目を作る。一町はおよそ百九メートルなので、一辺は約六百五十メートルになる。この升目を「里」と呼ぶ。その中を一町ごとにさらに区切ると、三十六の区画ができる。この一つが「坪」で、広さはちょうど一町(約一ヘクタール)にあたる。里は縦横に並べられ、一方の並びを「条」、もう一方を「里」として番号を振る。「何々郡の三条二里十五坪」と言えば、一町の田が一つに決まる。坪の番号の振り方には、各列を同じ向きに数える平行式と、列ごとに向きを折り返す千鳥式の二通りがあり、地方によって違った。

条里がいつ始まったのかは、はっきり言いにくい。大化の改新の詔(646年)には、それらしい土地の区画の規定がある。ただし『日本書紀』の記述には、後の制度をさかのぼらせて書いた部分があると指摘されていて、そのまま7世紀半ばの事実とは受け取れない。大宝律令(701年)で班田の仕組みが整えられ、各地の遺跡からは坪の番号を記した木簡が出ている。8世紀のものが多く、条里の呼び方が実際に使われるのは8世紀半ば以降とみる研究者が多い。

格子は全国で一斉に引かれたのではなかった。畿内から始まり、西日本の平野に広く施工されたが、東国ではまばらである。平野ごとに別々に工事をしたため、格子の向きは地域で少しずつ違う。真北を向いているところもあれば、地形や川の流れに合わせて傾いているところもある。都(平城京遷都)が碁盤の目に区切られていたのと発想は近いが、都の「条坊」と田の「条里」は別の制度で、京都の三条や四条は条坊のほうの名残である。

班田の制度そのものは、早くに行き詰まった。人口が増え、与える田が足りなくなる。政府は723年の三世一身法で、新しく開墾した田は三代のあいだ持ってよいと認め、743年の墾田永年私財法で、開墾した田の永久の私有を認めた。公地公民の原則は、ここで実質的に崩れる。私有の田は荘園として広がり、10世紀に入ると班田は行われなくなった。制度は二百年ほどで消えたことになる。

ところが、線のほうは残った。畦も、用水路も、道も、条里の格子に沿ったまま使われ続けた。理由はいくつかある。一度畦を作り、水路を通した田の区画を引き直すのは大工事である。しかも水田では、水の流れが格子に沿って組まれていて、一枚の田の形を変えれば下流の田がみな狂う。境界の線がはっきりしていれば、隣との争いも避けられる。制度が無くなっても、線は便利だった。中世の土地の売買の証文にも、何条何里何坪という呼び方がしばしば使われている。

いまも、奈良盆地や讃岐平野、近江、筑紫平野などで、田の形や道の走り方に条里の名残が見える。空から見下ろすと、田が正方形にそろい、道が直角に交わっている。「一の坪」「五条」「六条」といった地名も各地に残る。千三百年前に測量して引かれた線を、いまの舗装道路がなぞっているのである。ただし、圃場整備や宅地化で、こうした線はこの数十年で急速に消えつつもある。

条里が示しているのは、測ってから配るという国家のやり方である。人が住み、耕すうちに自然に境ができたのではない。先に格子を引き、その升目に人を割り当てた。同じことが千年余り後に、別の大陸で行われる。アメリカの1785年の公有地条例(六マイル四方)は、西部の土地を六マイル四方の升目に区切って売り出した。中央が現地を見ないまま土地を配るための仕組みという点で、目的もよく似ている。そしてどちらでも、制度より、地面に刻まれた線のほうが長く残った。

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