概要
百万都市の排泄物は、捨てるものではなく買うものだった。近郊の百姓が船と桶で汲みに来て、代金を払う。長屋では、その代金が大家の収入になり、店賃の一部を肩代わりした。武家屋敷のものは食事が良いとされ、高く取引された。値をめぐる争いが訴訟になり、組合ができ、相場ができた。江戸に大規模な下水が要らなかったのは、これが理由である。同じ時期のロンドンとパリは、汚物を川に流し、そして疫病を得た。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
本文
**問題**。
**百万人が住む都市が、**毎日、出すもの**。
(——**江戸の人口は、**18世紀に、100万人を超えた**とされる**。
**〈同時期のロンドンが約60万、パリが約50万。〉**
**——**一人が一日に出す量を、かりに1リットルとすれば、**一日に1,000トン**である**。〉)
**ヨーロッパの答え**。
(——**川に、流す**。
**あるいは、**溜めて、汲み取って、川に捨てる**。
**あるいは——**窓から、通りに、投げる**。
〈**「ガーディールー」**(gardyloo)——**エディンバラで、窓から汚物を捨てるときの掛け声**。
**フランス語の**gardez l'eau**(水に注意)から、とされる。〉
**結果**。
〈**——**テムズ川と、セーヌ川**。
**1858年、ロンドン、**「大悪臭」**(The Great Stink)。
**——**議会が、開けなくなった**。
**〈カーテンに石灰をしみこませて、なんとかしようとした。〉**
**そして、**コレラ**。
**1832年、1849年、1854年、1866年**。〉)
**江戸の答え**。
(——**売る**。
**〈捨てるのではない。〉**
**近郊の百姓が、**船と、桶を担いで、汲みに来る**。
**そして、**代金を、払う**。〉)
**なぜ、成り立つか**。
(**(1)**近郊が、農地である**。
〈**——**江戸の周りに、**大量の畑がある**。
**そして、**その畑の作物が、江戸で売られる**。
**——**循環している**。〉
**(2)**化学肥料が、無い**。
〈**——**窒素源が、**限られている**。
**魚肥(干鰯)は、**高い**。
**——**下肥が、**最も安く、確実な肥料**である**。〉
**(3)そして、**水運**。
〈**——**江戸は、**運河の街**である**。
**船で、**重いものを、安く運べる**。
**——**荷馬では、割に合わない**。〉)
**値段と、格**。
(——**質が、**違う**と考えられていた**。
〈**大名屋敷、旗本屋敷のもの**——**最も高い**。
**理由——**食事が、良い**。
**〈栄養価が高いから、肥料としての効きが良い、と考えられた。〉**
**次に、**町家**。
**そして、**裏長屋**——**安い**。
**さらに、**牢屋と、宿場**——**最も安い**。〉
**——**そして、**呼び名も、分かれていた**。
〈**「勤番」「辻」「町肥」「たれこみ」**、など。〉)
**長屋の経済**。
(——**九尺二間の裏長屋**。
**そこに、**共同の便所**がある**。
**その汲み取り代金は、**誰のものか**。
**——**大家**(家守)**である**。
〈**——**店子のものではない**。
**そして、**それが、**大家の収入の、無視できない部分**になっていた**。
**——**だから、**店賃が、安く抑えられた**、と論じられている**。
**〈「大家といえば親も同然」の一因である、という説もある。**
**——大家は、店子の排泄物で、収入を得ていた。〉**〉
**そして、**大家が、汲み取り業者と契約する**。
**——**年間いくら、で**。〉)
**争い**。
(——**汲み取りの権利をめぐって、**争いが起きた**。
**〈誰が、どの長屋を汲む権利を持つか。〉**
**そして、**値上げと値下げ**。
**——**組合ができた**。
〈**近郊の村々が、**組合を作って、値の交渉をした**。
**そして、**訴訟になった**。
**——**記録が、残っている**。
**〈1724年、武蔵国の村々が、値上げに反対して、江戸の業者を訴えた。〉**
**そして、**相場**が、立った**。〉
**——つまり、**市場である**。〉)
**規模**。
(——**推定は、幅がある**。
**しかし、**江戸周辺の、数十キロ圏の村々**が、**これに依存していた**。
〈**「江戸の下肥で、関東の畑が肥えた」**。
**そして、**その畑の野菜が、江戸で売られた**。〉
**——**尿も、別に取引された**。
〈**——**藍染めの媒染**、そして**硝石の製造**にも使われた**。〉)
**評価**。
(——**しばしば、**「江戸は、究極の循環型社会だった」**と語られる**。
**——**それは、**半分、正しい**。
**〈確かに、**物質の循環が、成立していた**。
**紙屑買い、古着屋、灰買い、鋳掛屋、そして下肥**。
**——**捨てるものが、極めて少ない**。〉
**そして、**半分、注意が要る**。
〈**(1)**選んだ結果ではない**。
**——**資源が、乏しかった**からである**。
**捨てる余裕が、無かった**。
**(2)**衛生上の問題は、あった**。
**——**寄生虫**である**。
**〈回虫、鉤虫。**
**——生の下肥を畑にまくと、卵が野菜に付く。**
**そして、それを食べる。**
**日本の寄生虫感染率は、戦後まで、極めて高かった。**
**〈1949年の調査で、国民の約6割が回虫に感染していた、という数字がある。〉**
**——化学肥料と、上下水道と、そしてGHQの指導による衛生対策で、1960年代に、ほぼ消えた。〉**
**(3)そして、**都市が大きくなると、成り立たない**。
**——**明治以降、**東京の人口が増え、近郊が宅地になると、**引き取り手が減った**。
**〈逆に、金を払って、捨てるものになった。〉**
**そして、**下水道**が、要るようになった**。〉)
**そして**。
(——**いま、**下水の汚泥から、リンを回収する技術**が、研究されている**。
**理由——**リン鉱石が、**特定の数か国に偏在し、**枯渇が懸念されている**からである**。
**〈モロッコ・西サハラに、世界の埋蔵量の大半がある。〉**
**——**窒素は、**空気から作れる**(ハーバー・ボッシュ法)。
**リンは、**作れない**。
**——**掘るか、**回収するか**である**。
**そして、**それは、江戸がやっていたことである**。)