藤原良房の摂政
概要
皇族でない者が初めて摂政になった。娘を天皇に嫁がせ、孫を幼くして即位させる。摂関政治の型が、ここで決まる。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
関わった人(1)
藤原良房AD804年–AD872年 · 摂政本文
858年、文徳天皇が32歳で急に亡くなり、わずか9歳(数え年)の皇太子が即位した。清和天皇である。それまで、これほど幼い天皇が立った例は無かった。政治を代わりに執ったのは、天皇の母方の祖父、藤原良房(藤原良房)だった。
良房は804年、藤原北家の冬嗣の子に生まれた。冬嗣は嵯峨天皇に重んじられ、810年の薬子の変(薬子の変)のときに新しく置かれた天皇の秘書役・蔵人頭に任じられて、北家の繁栄の土台を築いた人である。良房は若いころから嵯峨天皇に才を認められ、天皇の娘・源潔姫を妻に迎えた。潔姫は皇族の身分を離れて源の姓を与えられていたが、天皇の娘が臣下に嫁ぐのは、それまでに無いことだった。

良房の妹の順子は、嵯峨天皇の子の仁明天皇に嫁ぎ、道康親王を産んだ。ところが皇太子には、別の系統の恒貞親王が立てられていた。842年、嵯峨上皇が亡くなった直後、皇太子に仕える伴健岑と橘逸勢が、皇太子を奉じて東国へ下ろうと謀ったとして捕らえられた。恒貞親王は皇太子を廃され、代わって良房の甥の道康親王が皇太子となった。承和の変である(承和の変)。この事件で最も得をしたのは良房であり、彼が仕組んだとする見方もあるが、確かな証拠は無い。
850年、道康親王が即位して文徳天皇となる。その年、良房の娘・明子が皇子の惟仁を産んだ。文徳天皇には、すでに紀氏の娘が産んだ年上の皇子・惟喬がいて、天皇はこの皇子を愛していたという。だが惟仁は生後8か月で皇太子に立てられた。天皇は後に惟喬を皇太子に立てようと考えたが、良房をはばかって果たせなかった、という話が伝わっている。
857年、良房は太政大臣に任じられた。太政大臣は律令で最も高い官職で、ふさわしい人がいなければ置かない「則闕の官」とされていた。そして翌年、文徳天皇が亡くなり、孫の清和天皇が即位する。天皇が幼いため、良房が事実上の摂政として政治を取り仕切った。
摂政という役目は、それまでにもあった。聖徳太子が推古天皇の摂政を務めたと伝えられるように、天皇に代わって政治を執るのは、皇族の役目とされていた。皇族でない臣下がその座に就いたことが、良房の新しさだった。
それを正式なものにしたのが、866年の応天門の変である(応天門の変)。閏3月、平安宮の正門の一つ、応天門が炎上した。大納言の伴善男は、左大臣の源信が火をつけたと訴えた。いったんは源信が罪に問われかけたが、良房が天皇に申し入れて取りやめさせた。その後、伴善男とその子こそが放火の犯人だという訴えが出て、伴善男は伊豆へ流された。古くからの名門だった伴氏と紀氏は、この事件で力を失う。事件の真相はいまも分かっていない。その渦中の8月、清和天皇は良房に、天下の政治を代わって執るよう命じる勅を出した。臣下が摂政に任じられた最初とされる。858年からすでに摂政の働きをしていたと見るか、866年に初めて摂政となったと見るかで、研究者の説は分かれる。

良房には男の子がいなかった。兄・長良の子の基経(藤原基経)を養子に迎えて、跡を継がせた。良房は872年に亡くなる。基経は清和天皇の子の陽成天皇の摂政となり、のちに陽成天皇を退位させ、光孝天皇を立てた。そして887年、成人した天皇を補佐する関白の地位に就いた。
娘を天皇に嫁がせ、生まれた皇子を幼いうちに即位させ、その祖父として天皇に代わって政治を執る。天皇が成人すれば関白として補佐する。良房が開き、基経が固めたこの型が、摂関政治である。10世紀の後半からは摂政・関白がほとんど常に置かれるようになり、11世紀の藤原道長とその子頼通の時代に頂点を迎える。道長は基経の子孫であり、良房から見れば養子を通した家系の末にあたる。

藤原氏の摂関家は、のちに五つの家(五摂家)に分かれ、明治維新まで摂政・関白の職を独占した。良房が9歳の孫の代わりに政治を執ったところから、その長い歴史が始まっている。