百済の漢城陥落
概要
高句麗が漢江流域を奪い、百済は都を南へ移した。この敗北のあと、百済は倭との関係を深める。半島と日本列島の往来が濃くなる時期になる。
場所
37.57°N 126.98°E · 大韓民国
本文
百済の最初の都、漢城は、いまのソウルの漢江の南岸にあった。松坡区に残る風納土城と夢村土城がその跡とされる。漢江の流域は朝鮮半島の真ん中にあたり、川の水運と広い平野に恵まれ、北と南を結ぶ要の土地だった。百済は建国の伝承(百済の建国(伝承))以来、ここを拠点に育った。
その北に高句麗がいた。4世紀の末から5世紀にかけて、好太王とその子の長寿王のもとで、高句麗は大きく南へ広がる。好太王は百済を攻めて多くの城を奪ったと、その功績を刻んだ碑(好太王碑)が誇っている。長寿王は427年に都を鴨緑江のほとりから南の平壌へ移した(高句麗の平壌遷都)。南へ向かう意志をはっきり示した遷都で、漢江流域はそのすぐ先にあった。
百済の蓋鹵王は危機を感じていた。472年、北の大国北魏に使いを送り、高句麗を討ってほしいと求めている。この上表文は中国の歴史書『魏書』に残っているが、北魏は動かなかった。『三国史記』には、高句麗が僧の道琳を間者として送り込み、碁を好む蓋鹵王に近づかせて、城壁や宮殿の大がかりな工事を勧めさせ、国の蓄えを使い果たさせたという話が載っている。どこまで事実かは分からないが、百済が内側から弱っていたという見方を伝える逸話になっている。
475年9月、長寿王は3万の兵で漢城を囲んだ。高句麗軍は北の城を7日で落とし、続いて南の城にも攻め入った。蓋鹵王は城を出て逃れようとしたが捕らえられ、阿且城の下で殺された。王を捕らえた高句麗の将の中には、かつて百済から高句麗へ逃れた者がいたと『三国史記』は書いている。

百済は漢江の流域を失った。王の子の文周王は南へ下り、錦江のほとりの熊津(いまの公州)で即位して、都を移した。熊津は山と川に守られた要害だったが、都としては狭かった。538年、聖王の時代に、同じ錦江の下流で平野の開けた泗沘(いまの扶余)へふたたび都を移す。
この敗北のあと、百済は外に頼る道をとる。南朝の宋や梁に使いを送り、東では海を隔てた倭との結びつきを深めた。両国の関係はそれ以前から始まっていた。369年の年号を刻んだとみられる七支刀が、百済から倭へ贈られたものとして奈良の石上神宮に伝わっている。だが、漢城を失ってからの百済にとって、倭は欠かせない後ろ盾になった。

『日本書紀』は、百済が一時滅んだと記したうえで、倭の大王が百済の王族に熊津の地を与えて国を復興させたと書く。これは倭の側から見た書き方で、そのまま事実とは受け取れないが、両国が近くなったことは確かだ。百済の王族が倭に滞在し、倭は兵と物資を送った。武寧王は倭の筑紫の島で生まれたと『日本書紀』にあり、1971年に公州で見つかったその墓の棺は、日本でしか育たないコウヤマキで作られていた。
百済から倭へは、人と知識が渡った。513年には儒教の経典に通じた五経博士が送られ、その後も医や暦の専門家が交代で派遣された。538年(一説に552年)には、聖王が仏像と経典を贈った(仏教の日本伝来)。寺を建てる工人や瓦を焼く職人も海を渡り、飛鳥寺はその技術で建てられた。

百済は泗沘の時代に一度持ち直し、551年には新羅と組んで漢江流域を取り戻した。だが、まもなく新羅に裏切られて奪われ、554年には聖王自身が新羅との戦いで戦死する。漢江流域を押さえた新羅は、そこから黄海を渡って中国と直接結べるようになり、のちの半島統一の足がかりを得た(新羅の朝鮮半島統一)。
日本の古代の記録に百済が繰り返し出てくるのは、漢城陥落からのおよそ二百年の関係による。660年、百済が唐と新羅に滅ぼされたとき(百済の滅亡)、倭は復興を助けるために大軍を送り、663年の白村江の戦いで敗れた。そのあと、多くの百済人が倭へ亡命した。彼らは大宰府を守る大野城などの山城を築き、律令や学問の担い手として朝廷に仕えた。475年の敗北は、半島の地図を塗り替えただけでなく、日本列島の国づくりにもつながっていった。