できごと

百済の漢城陥落

Fall of Baekje's capital Hanseong
AD475年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民北極圏の海獣狩猟民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民柔然晋グプタ朝五胡十六国高句麗アイヌ北涼日本チャンパ新羅AD475年漢城(ソウル)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD475年の版図を描いています(13勢力)。

概要

高句麗が漢江流域を奪い、百済は都を南へ移した。この敗北のあと、百済は倭との関係を深める。半島と日本列島の往来が濃くなる時期になる。

場所

漢城(ソウル)
37.57°N 126.98°E · 大韓民国

本文

百済の最初の都、漢城は、いまのソウルの漢江の南岸にあった。松坡区に残る風納土城と夢村土城がその跡とされる。漢江の流域は朝鮮半島の真ん中にあたり、川の水運と広い平野に恵まれ、北と南を結ぶ要の土地だった。百済は建国の伝承(百済の建国(伝承))以来、ここを拠点に育った。

その北に高句麗がいた。4世紀の末から5世紀にかけて、好太王とその子の長寿王のもとで、高句麗は大きく南へ広がる。好太王は百済を攻めて多くの城を奪ったと、その功績を刻んだ碑(好太王碑)が誇っている。長寿王は427年に都を鴨緑江のほとりから南の平壌へ移した(高句麗の平壌遷都)。南へ向かう意志をはっきり示した遷都で、漢江流域はそのすぐ先にあった。

現在のソウル市にある石村洞3号墳。 高句麗の影響を受けたと見られる積石塚。
現在のソウル市にある石村洞3号墳。 高句麗の影響を受けたと見られる積石塚。Wikimedia Commons Saigen Jiro · CC0

百済の蓋鹵王は危機を感じていた。472年、北の大国北魏に使いを送り、高句麗を討ってほしいと求めている。この上表文は中国の歴史書『魏書』に残っているが、北魏は動かなかった。『三国史記』には、高句麗が僧の道琳を間者として送り込み、碁を好む蓋鹵王に近づかせて、城壁や宮殿の大がかりな工事を勧めさせ、国の蓄えを使い果たさせたという話が載っている。どこまで事実かは分からないが、百済が内側から弱っていたという見方を伝える逸話になっている。

475年9月、長寿王は3万の兵で漢城を囲んだ。高句麗軍は北の城を7日で落とし、続いて南の城にも攻め入った。蓋鹵王は城を出て逃れようとしたが捕らえられ、阿且城の下で殺された。王を捕らえた高句麗の将の中には、かつて百済から高句麗へ逃れた者がいたと『三国史記』は書いている。

百済最大規模であった弥勒寺跡に残る石塔
百済最大規模であった弥勒寺跡に残る石塔Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

百済は漢江の流域を失った。王の子の文周王は南へ下り、錦江のほとりの熊津(いまの公州)で即位して、都を移した。熊津は山と川に守られた要害だったが、都としては狭かった。538年、聖王の時代に、同じ錦江の下流で平野の開けた泗沘(いまの扶余)へふたたび都を移す。

この敗北のあと、百済は外に頼る道をとる。南朝の宋や梁に使いを送り、東では海を隔てた倭との結びつきを深めた。両国の関係はそれ以前から始まっていた。369年の年号を刻んだとみられる七支刀が、百済から倭へ贈られたものとして奈良の石上神宮に伝わっている。だが、漢城を失ってからの百済にとって、倭は欠かせない後ろ盾になった。

4世紀の百済の版図
4世紀の百済の版図Wikimedia Commons Asieon · CC0

『日本書紀』は、百済が一時滅んだと記したうえで、倭の大王が百済の王族に熊津の地を与えて国を復興させたと書く。これは倭の側から見た書き方で、そのまま事実とは受け取れないが、両国が近くなったことは確かだ。百済の王族が倭に滞在し、倭は兵と物資を送った。武寧王は倭の筑紫の島で生まれたと『日本書紀』にあり、1971年に公州で見つかったその墓の棺は、日本でしか育たないコウヤマキで作られていた。

百済から倭へは、人と知識が渡った。513年には儒教の経典に通じた五経博士が送られ、その後も医や暦の専門家が交代で派遣された。538年(一説に552年)には、聖王が仏像と経典を贈った(仏教の日本伝来)。寺を建てる工人や瓦を焼く職人も海を渡り、飛鳥寺はその技術で建てられた。

梁の元帝の宮廷に赴いた百済の使者(516〜520年、『職貢図』の宋代模本)
梁の元帝の宮廷に赴いた百済の使者(516〜520年、『職貢図』の宋代模本)Wikimedia Commons 양직공 · Public domain

百済は泗沘の時代に一度持ち直し、551年には新羅と組んで漢江流域を取り戻した。だが、まもなく新羅に裏切られて奪われ、554年には聖王自身が新羅との戦いで戦死する。漢江流域を押さえた新羅は、そこから黄海を渡って中国と直接結べるようになり、のちの半島統一の足がかりを得た(新羅の朝鮮半島統一)。

日本の古代の記録に百済が繰り返し出てくるのは、漢城陥落からのおよそ二百年の関係による。660年、百済が唐と新羅に滅ぼされたとき(百済の滅亡)、倭は復興を助けるために大軍を送り、663年の白村江の戦いで敗れた。そのあと、多くの百済人が倭へ亡命した。彼らは大宰府を守る大野城などの山城を築き、律令や学問の担い手として朝廷に仕えた。475年の敗北は、半島の地図を塗り替えただけでなく、日本列島の国づくりにもつながっていった。

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