人物

空也

Kūya
AD903年 – AD972年(享年69・推定)
平安時代重要度 4

概要

出自は分からない。醍醐天皇の子とも。市で念仏を唱え、道と橋と井戸を作り、死体を葬った。「市聖」。「阿弥陀聖」。鹿の角の杖、金鼓、鉦。六波羅蜜寺。口から六体の阿弥陀が出ている像は、彼の念仏の姿。念仏を、寺から市へ出した。

本文

空也は、平安時代の中ごろ、京の市中で人々に念仏を勧めた僧である。「市聖」「阿弥陀聖」と呼ばれた。阿弥陀仏の名を唱えれば極楽に生まれることができるという教えは、それまで比叡山などの大寺院の中で修められるものだった。空也はそれを寺の外へ、市場と道ばたへ持ち出した。

興正大師空也坐像(運慶の子・康勝作、六波羅蜜寺、13世紀初頭、重要文化財)
興正大師空也坐像(運慶の子・康勝作、六波羅蜜寺、13世紀初頭、重要文化財)Wikimedia Commons ASUKAEN · Public domain

903年に生まれたとされるが、生まれも素性もはっきりしない。醍醐天皇の皇子だったという説や、仁明天皇の孫だという説が伝わるが、本人は生涯、出自を語らなかったという。若いころから諸国を巡り、20歳を過ぎたころ尾張の国分寺で髪を剃って、自ら空也と名乗った。正式な授戒を受けない、民間の修行者としての出発だった。

その後の空也は、山や島に籠もって修行する一方、各地を歩いて人々のための仕事をした。険しい道を切り開き、川に橋をかけ、水の乏しい土地では井戸を掘った。野ざらしになった死者を見つけると、一か所に集めて油を注いで焼き、阿弥陀仏の名を唱えて弔った。播磨や阿波、土佐、さらに遠く陸奥や出羽まで足を運んだと伝えられる。

938年、空也は京に入った。この年からの数年、東国では平将門の乱が、西国では藤原純友の乱が起き、都には不安が広がっていた。空也は京の東西の市に立ち、人々に念仏を唱えるよう勧め、物乞いで得た食べ物を貧しい人や病人に分け与えた。いつしか人々は彼を市の聖と呼ぶようになった。

平将門の乱に関わる図版:Takedono no Rakugan 高殿落雁 (BM 2008,3037.19902 1)
平将門の乱Wikimedia Commons Print artist: Utagawa Kuniyoshi (歌川国芳) Published by: Enshuya Matabei (遠州屋又兵衛) · Public domain

その姿は独特だった。首から金鼓(鉦)を下げて打ち鳴らし、鹿の角をつけた杖をつき、鹿の皮をまとっていたと伝えられる。かわいがっていた鹿を猟師に射殺され、その皮と角を身につけて供養したのだという話も残るが、これは後世の伝えである。

948年、空也は比叡山に登り、天台座主の延昌から正式に戒を受けて、光勝という僧名を授かった。それでも彼は終生、自ら名乗った空也の名を使い続けた。都の上流の貴族たちとの縁もできていたが、大寺院の僧として生きる道は選ばなかった。

951年、京で疫病がはやると、空也は十一面観音の像を造り、鴨川の東に一つの寺を建てた。西光寺といい、のちの六波羅蜜寺である。このとき空也が観音に供えた茶を病人に振る舞ったところ、多くの人が癒えたという言い伝えがあり、六波羅蜜寺ではいまも正月に「皇服茶」を授けている。963年には、十数年をかけて金泥で書写させた大般若経600巻の完成を祝い、鴨川のほとりで大がかりな供養の会を開いた。貴族から庶民まで多くの人が集まったという。

972年、空也は西光寺で死んだ。70歳とされる。

空也の生涯を伝える最も古い史料は、死の直後に文人の源為憲が書いた『空也誄』である。同じころ、慶滋保胤は極楽に往生した人々の伝記を集めた『日本往生極楽記』に空也を載せ、それ以前は念仏を修める者は寺にも村にもまれだったが、空也が来て自ら唱え、人にも唱えさせてから、世を挙げて念仏をするようになった、という意味のことを書いている。

空也の死から十数年後、比叡山の源信は源信『往生要集』を著し、極楽と地獄の姿を細かに描いて念仏の教えを体系づけた。空也が市で唱え広めた念仏を、源信が書物で支えたとも言える。11世紀の半ばには末法の始まりと信じられ、貴族たちは極楽を地上に写した平等院鳳凰堂のような堂を建てた。200年ほどのちには、法然が念仏だけで救われると説き(法然の専修念仏)、鎌倉時代の一遍は、空也を自分の先達と仰いで諸国を巡った(一遍の遊行)。鉦を打ち、踊りながら念仏を唱える踊念仏は、空也に始まると伝えられてきた。

平等院鳳凰堂に関わる図版:Phoenix Hall in Byodo-in Temple, Ujirenge Uji city 2026
平等院鳳凰堂Wikimedia Commons Tomio344456 · CC0

京都の六波羅蜜寺には、鎌倉時代の初めに運慶の四男康勝が作った空也の立像が伝わる。わらじ履きで鹿の角の杖をつき、胸に鉦を下げて、少し前のめりに歩いている。開いた口からは、針金に支えられた六体の小さな阿弥陀仏が、一列に並んで出ている。「南無阿弥陀仏」の六つの文字が、一音ごとに仏の姿になって口から現れる様子を表したものである。声を形にしたこの像は、空也が何をした人だったのかを、どんな文書よりも分かりやすく伝えている。

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