人物

栄西

Eisai
AD1141年 – AD1215年(享年74・推定)
日本重要度 3

概要

二度宋に渡り、臨済の禅を伝えた。旧仏教に阻まれて博多と鎌倉で寺を建て、京都に建仁寺を開いた。茶の種を持ち帰り、『喫茶養生記』を書いた。日本の茶は、この僧から始まったことになっている。

所属

日本

関わったできごと(1)

栄西と臨済宗AD1191年 · 開祖

本文

1141年、備中の吉備津(いまの岡山市)で、吉備津神社の神職の家に生まれた。名は「えいさい」とも「ようさい」とも読まれる。幼い頃から父に仏典を学び、14歳で比叡山に上って出家した。比叡山は最澄が開いた天台宗の総本山で、教えの学問と密教の修行の場だった。栄西も若い頃は天台の密教を熱心に学び、のちに自分の流派を立てるほどになった。

栄西の肖像、建仁寺蔵
栄西の肖像、建仁寺蔵Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

平安末期の比叡山は、多くの僧兵を抱え、荘園をめぐって争い、朝廷に強訴を繰り返していた。栄西は、仏法が衰えているのは、その源である中国の教えから日本が長く離れているためだと考え、海を渡ることを望んだ。遣唐使が廃止されて300年近く、日本の僧が中国へ渡ることは稀になっていた。

1168年、28歳で宋に渡った。明州(いまの寧波)に着くと、天台宗の聖地である天台山や阿育王山を巡った。このとき、東大寺の再建で知られることになる重源と現地で出会い、ともに帰国している。持ち帰ったのは天台の経典の注釈書30余部60巻ほどだった。滞在は半年ほどだったが、宋の寺々で禅が盛んに行われているのを見たことが、後の生涯を決めた。

茶碑、建仁寺、京都市東山区
茶碑、建仁寺、京都市東山区Wikimedia Commons mariemon · CC BY 3.0

1187年、47歳で再び宋に渡った。目的はインドへ行って釈迦の足跡を訪ねることだったが、宋の役所は西方への道が通じていないとして許さなかった。栄西は天台山の万年寺で、臨済宗黄龍派の禅僧・虚庵懐敞に師事した。師が天童山へ移るとそれに従い、4年あまり禅の修行を積んで、1191年に師から悟りを認める印可を受けた。同じ年、宋の商船で九州の平戸に帰り着いた(栄西と臨済宗)。

帰国した栄西は、博多を拠点に禅を広め始めた。博多には宋の商人が多く住み、宋の文化を受け入れる土壌があった。1195年、博多に聖福寺を建てた。日本で最初の本格的な禅寺とされ、のちに後鳥羽上皇から「扶桑最初禅窟」の額を賜ったと伝えられる。

『茶祖栄西禅師之像』(静岡県掛川市)
『茶祖栄西禅師之像』(静岡県掛川市)Wikimedia Commons 観光・CP課 · CC BY 4.0

だが京都では、禅は歓迎されなかった。比叡山は、栄西や、同じ頃に独自に禅を説いていた大日能忍の活動を、天台の教えを乱すものとして朝廷に訴え、1194年、禅の布教を禁じる命令が出された。法然の念仏も同じように攻撃を受けていた時代である。栄西は1198年に『興禅護国論』を著し、禅は最澄もすでに伝えていたもので天台の教えと矛盾しない、禅が栄えれば国が守られる、と論じた。新しい宗派を立てるというより、天台宗の中に禅を取り戻すという姿勢を取ったのである。

栄西が活路を開いたのは、京都ではなく鎌倉だった。1199年に鎌倉へ下ると、源頼朝の未亡人・北条政子の帰依を受け、1200年、政子が建てた寿福寺の開山となった。武士たちにとって、宋の新しい文化と結びついた禅は魅力があった。1202年には、2代将軍の源頼家の援助で、京都に建仁寺を開いた。建仁寺は当初、天台・真言・禅の三つを兼ねて学ぶ寺とされた。比叡山との衝突を避けるための形だったと考えられている。

栄西は禅僧であるとともに、寺の造営に長けた実務家でもあった。1206年、重源の跡を継いで東大寺の再建の責任者である大勧進となり、さらに法勝寺の九重塔の再建も担った(東大寺の再建)。一方で、朝廷に僧正の位を強く求めたことは、世の人から名誉を欲しがっていると批判された。その現実的な振る舞いは、後の世にも賛否を呼んでいる。

栄西の名を今に伝えるもう一つのものが、茶である。宋の禅寺では、眠気を払い身を整えるために茶を飲む習慣が根づいていた。栄西はその茶の飲み方と、茶の種を持ち帰ったとされる。鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』によれば、1214年、3代将軍・源実朝が二日酔いに苦しんでいたとき、栄西は一服の茶を勧め、あわせて茶の効能を書いた一巻を献じた。これが『喫茶養生記』で、「茶は養生の仙薬であり、延命の妙術である」と書き起こし、茶の効能や作り方を説いている。栄西が京都栂尾の明恵に茶の種を贈り、それが宇治などへ広がったという伝えもある。

ただし、日本の茶は栄西に始まったわけではない。平安時代の初め、815年に嵯峨天皇が僧の永忠から茶を献じられた記録があり、最澄と空海の入唐の頃にも茶は伝わっていた。だがその習慣は貴族や寺の一部にとどまり、やがて廃れた。栄西のあと、茶は禅寺と武士の間に広まり、のちの村田珠光と侘び茶へと続く茶の湯の道が開かれていく。

1215年、栄西は75歳で死んだ。死んだ場所は京都の建仁寺とも鎌倉の寿福寺とも伝わり、はっきりしない。建仁寺には栄西の墓所とされる開山堂がある。のちに曹洞宗を開く道元は、若い頃に建仁寺に入り、栄西の弟子の明全に学んで、ともに宋へ渡った。日本の禅の二つの大きな流れは、どちらも栄西の寺から出発したことになる。

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