できごと

釈迦の悟り

Buddha's enlightenment
BC528年頃(年代に諸説あり)
年に諸説あり重要度 5
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概要

菩提樹の下で苦の原因と、そこから離れる道に到った。年代は南伝と北伝で1世紀近く違う。

場所

ブッダガヤ
24.70°N 84.99°E · インド・ビハール州

関わった人(1)

ゴータマ・シッダールタBC463年頃(BC566年説もある)–BC383年頃(BC486年説もある) · 当人

本文

紀元前6世紀から5世紀ごろ、ガンジス川の流域では、農業の発展とともに都市が生まれ、交易が広がり、いくつもの王国が力を争っていた。それまでの社会を支えてきたのは、ヴェーダの成立以来のバラモン(祭官)による祭式だった。神々に供物を捧げる祭式を正しく行うことが世界の秩序を保つとされ、それを担うバラモンが身分の頂点に立っていた。

この時代、祭式に頼らず、自分の修行によって真理に至ろうとする人々が次々に現れた。家を捨てて森で瞑想する者、厳しい苦行で体を痛めつける者、物質だけが実在だと説く者もいた。こうした出家の修行者たちは沙門と呼ばれる。ウパニシャッドの思想家たちが説いた、人は生まれ変わりを繰り返し、行いがその次の生を決めるという考えも広まっていた。ジャイナ教を開いたマハーヴィーラも、この時代の人である。

十六大国時代のインド(紀元前600年)
十六大国時代のインド(紀元前600年)Wikimedia Commons No machine-readable author provided. Kmusser assumed (based on copyright claims). · CC BY 2.5

ゴータマ・シッダールタは、いまのネパールとインドの国境の近く、ヒマラヤのふもとにいたシャカ族の王の子として生まれた。本名はゴータマ・シッダールタと伝えられる。生まれたのはルンビニーの園で、母は出産の7日後に亡くなったとされる。のちにアショーカ王がこの地を訪れて建てた石柱には、ここでブッダが生まれたと刻まれている。

王子は何不自由なく育ち、妃を迎え、男の子をもうけた。それでも、人が老い、病み、死ぬことへの悩みから逃れられなかった。城の東西南北の門から外に出て、老人、病人、死者、そして出家の修行者に出会い、出家を決意したという話が伝わる。これは後に整えられた物語とされるが、悩みの中身をよく表している。29歳で、王子は家を出た。

白象懐胎(大英博物館所蔵、製作年代は1世紀から2世紀頃)
白象懐胎(大英博物館所蔵、製作年代は1世紀から2世紀頃)Wikimedia Commons Marie-Lan Nguyen · Public domain

出家した後、ゴータマはまず瞑想の師について修行したが、満足できなかった。次に、断食などの激しい苦行に6年間打ち込んだ。骨と皮ばかりになるまで体を痛めつけたが、答えは出なかった。ゴータマは苦行をやめ、川で体を清め、村の娘スジャーターが差し出した乳がゆを口にした。一緒に修行していた5人の仲間は、ゴータマが修行を捨てて堕落したと考えて去っていった。

ゴータマはガヤーの近くの村で、一本のインド菩提樹の木の下に座り、瞑想に入った。悪魔マーラが誘惑や脅しで瞑想を妨げようとしたという話も伝えられる。そして、ある夜明けに悟りに至った。35歳だったとされる。この時から、ゴータマはブッダ、すなわち「目覚めた人」と呼ばれる。この地はブッダガヤーと呼ばれるようになった。

釈迦の苦行像(川口市の西光院)
釈迦の苦行像(川口市の西光院)Wikimedia Commons Souka Kinmei · CC BY 4.0

ブッダが悟った内容は、のちに四つの真理としてまとめられた。生きることは苦しみである。苦しみには原因があり、それは尽きることのない欲望や執着である。原因をなくせば、苦しみは消える。そのための道がある。その道は、正しく見ること、正しく考えること、正しく語ることなど、八つの正しい実践からなる。快楽にふけることも、苦行で自分を痛めつけることも避ける「中道」が、その土台にあった。すべてのものは原因と条件によって生じ、移り変わるという縁起の考えも、悟りの中心にあったとされる。

際立っているのは、神への祈りや祭式が出てこないことだ。救いは、神の恵みでもバラモンの祭式でもなく、自分で物事のあり方を見きわめ、心を整えることで得られるとされた。

6年の苦行の後に山から出てくる釈迦を表した像。室町時代の15世紀から16世紀の作。奈良国立博物館蔵。
6年の苦行の後に山から出てくる釈迦を表した像。室町時代の15世紀から16世紀の作。奈良国立博物館蔵。Wikimedia Commons 奈良国立博物館(Nara National Museum) · CC BY 4.0

悟りを開いた後、ブッダは教えを説くかどうか迷ったと伝えられる。それでも、かつての5人の仲間がいるヴァーラーナシー郊外の鹿野苑へ向かい、最初の説法を行った。5人はブッダの弟子になった。これを、法の輪を初めて回すという意味で初転法輪と呼ぶ。

その後、ブッダは約45年にわたってガンジス川の流域を歩き、王や商人から、遊女や盗賊まで、身分を問わず人々に教えを説いた。出家した弟子たちは僧団を作り、やがて女性の出家者の集まりも生まれた。生まれではなく行いによって人の価値が決まるという教えは、身分の低い人々にも開かれていた。ブッダは80歳のとき、クシナガラで亡くなった。これを入滅と呼ぶ。ブッダ自身は何も書き残さなかった。教えは弟子たちが集まって確かめ合い、暗唱によって伝えられた。文字に書き留められたのは、数百年後のことである。

ブッダガヤの大菩提寺のゴータマ・ブッダの菩提樹
ブッダガヤの大菩提寺のゴータマ・ブッダの菩提樹Wikimedia Commons William Pfeifer · Public domain

ブッダの生きた年代は、はっきりしていない。紀元前563年ごろから紀元前483年ごろとする説と、紀元前463年ごろから紀元前383年ごろとする説のあいだに、約100年の開きがある。南方に伝わった仏典と北方に伝わった仏典で、ブッダの入滅からアショーカ王の即位までの年数が違うためである。悟りの年もそれに従って動く。この年表では、前の説に寄せた年に幅を持たせて置いている。

ブッダの教えは、紀元前3世紀にアショーカ王が帰依したことで、インドの各地とその外へ広まった。南はスリランカから東南アジアへ、北は中央アジアを経て中国、朝鮮半島、そして日本へと伝わった。日本への伝来は6世紀の仏教の日本伝来である。ブッダガヤーの大菩提寺はいまも世界中から巡礼者を集め、そこに立つ菩提樹は、悟りの木の流れをくむものとされている。

動画(1)

023 小国分立の時代 世界史20話プロジェクト第04話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第23講「小国分立の時代」

出典(3)

ユヴァル・ノア・ハラリ(柴田裕之 訳) 『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』第12章 宗教という超人間的秩序
ウィリアム・H・マクニール(増田義郎、佐々木昭夫 訳) 『世界史』第I部 ユーラシア大文明の誕生とその発展(BC500年まで)
デヴィッド・グレーバー(酒井隆史 訳) 『負債論 貨幣と暴力の5000年』第9章(枢軸時代。同じ数百年に生まれた思想)

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