カリンガ戦争とアショーカの改宗

概要
十万を超える死者を出した征服の惨禍を悔い、アショーカ王は仏教に帰依して法による統治へ転じた。
場所
20.27°N 85.84°E · インド・オリッサ州
関わった人(1)
アショーカ王BC304年頃–BC232年 · マウリヤ側 · 総指揮本文
インドの東海岸、いまのオディシャ州のあたりに、かつてカリンガと呼ばれる国があった。ガンジス川流域から南へ向かう陸路と、ベンガル湾の海の道を押さえる豊かな土地である。北インドのほぼ全域を支配したマウリヤ朝にとって、カリンガは帝国の内側に残された、まだ従わない国だった。
マウリヤ朝は、チャンドラグプタが紀元前4世紀の末に開いた。アレクサンドロス大王がインダス川の流域から引き揚げた後の空白を突いて北インドをまとめ、その孫がアショーカ王である。アショーカは父ビンドゥサーラの死後、王位をめぐる争いを経て即位したとされる。仏教の伝承は、即位前のアショーカを残忍な人物として描き、兄弟を99人殺したとまで語るが、これは改心の劇的な効果を高めるための誇張と考えられている。

即位して8年ほどたった紀元前261年頃、アショーカはカリンガに兵を向けた。この戦争について分かっていることの大部分は、アショーカ自身が後に岩に刻ませた言葉による。いわゆるアショーカ王の碑文の一つ、第13章とされる磨崖の碑文である。
碑文はこう書く。カリンガが征服されたとき、15万人が連れ去られ、10万人が殺され、その何倍もの人が死んだ。そして、その後に王の心には深い悔いが生まれた、と。王は、征服された国で人々が殺され、死に、連れ去られることを、重く痛ましいことと感じている。さらに、戦いに巻き込まれた人々の中には、バラモンや修行者、親や師を敬う善良な人々がいて、彼らが傷つき、愛する者と引き離されたことを悲しんでいる、と続ける。
勝った側の王が、自分の戦争の犠牲を数字で示し、それを悔いると公に刻ませた例は、古代の世界でほとんど知られていない。数字そのものがどこまで正確かは分からないが、少なくとも王が、この戦争を誇るべき勝利としてではなく、悔いるべきものとして語ることを選んだのは確かである。
ただし、この第13章には興味深い事実がある。カリンガの地そのものに置かれた2か所の碑文群には、この章が刻まれていないのである。その代わりに、現地の役人に向けて、住民を公正に扱い、不当な投獄や拷問をしないよう命じた別の文が置かれている。征服された人々の目の前に、王が悔いていると書いた碑文をあえて置かなかったのは、統治への配慮だったと考えられている。
アショーカは、この戦争の前後から仏教に近づいていたとされる。碑文によれば、王は在家の信者となり、やがて熱心に教えに打ち込むようになった。以後、武力による征服に代えて、ダルマ(法)による征服こそが最上の勝利だと宣言する。ダルマの中身として説かれたのは、親や年長者に従うこと、師を敬うこと、友人や親族、修行者に施すこと、生き物をむやみに殺さないこと、そして他の宗派を貶めず、互いの教えに耳を傾けることだった。仏教だけを押しつけたのではなく、宗派を越えた倫理として語っている。
王は言葉だけで終わらせなかった。ダルマを広め、人々の暮らしを見回る専任の高官を置き、道に木を植え、井戸を掘り、人と家畜のための薬草を育てさせた。宮廷の料理のために殺す動物の数を減らしたとも書いている。碑文は帝国の各地の岩や石柱に、その土地の言葉と文字で刻まれた。北西部ではギリシア語とアラム語の版まで見つかっている。
それでも、アショーカは軍を解いたわけではない。カリンガを独立させてもいない。同じ第13章で、王は森に住む部族に向けて、王には悔いがあるが力もあることを忘れるな、改めなければ罰を与える、と警告している。悔いと威嚇が同じ碑文に並んでいるのである。回心の物語として語られることが多いが、碑文を読む限り、統治の方針を大きく転換したものと見るほうが実態に近い。
仏教の伝承では、アショーカは都パータリプトラで教団の結集を支え、王子とされるマヒンダをスリランカへ送って仏教を伝えた。碑文には、西方のギリシア系の王たちのもとへもダルマの使節を送ったとあり、セレウコス朝やプトレマイオス朝の王の名が並ぶ。のちに仏教がアジアに広がる道の一つは、ここで開かれた。
アショーカの死後、マウリヤ朝は半世紀ほどで衰えて滅んだ。王の名もやがて忘れられた。碑文の文字は19世紀前半にイギリスの研究者プリンセプが解読したが、碑文の王は「神々に愛でられた者」と名乗るだけで、それがアショーカだと確かめられたのは、20世紀初めに王の名を記した碑文が見つかってからである。サールナートの石柱の頂を飾っていた4頭の獅子の像は、いまインドの国章になり、国旗の中央の法輪も、アショーカの石柱から取られている。
カリンガのほうは、マウリヤ朝が衰えると再び力を取り戻した。紀元前1世紀頃には、カーラヴェーラという王が北インドまで兵を進めたことを、自ら岩窟に刻ませている。戦場とされる場所の一つ、ブバネーシュワル近郊のダウリの丘には、アショーカの碑文の刻まれた岩が残り、その上には1970年代に日本の仏教団体の協力で白い平和の仏塔が建てられた。征服の地が、のちに平和を祈る場所として訪ねられているのである。