ジャヤーヴァルマン7世
概要
アンコール・トムを築いた王。仏教を篤く保護し、各地に病院を置いたと碑文に残る。
関わったできごと(1)
ジャヤヴァルマン7世とアンコール・トムAD1181年 · 王本文
1122年頃に生まれたとされる。父は王ダラニンドラヴァルマン2世で、クメールの王家にはめずらしく仏教を信じた王だった。9世紀のジャヤーヴァルマン2世以来、アンコールを都とするクメールの王たちは、ヒンドゥーの神々、とくにシヴァやヴィシュヌを国の守り神として崇め、王を神と一体のものとして寺院を建ててきた。12世紀の前半には、スーリヤヴァルマン2世がヴィシュヌに捧げるアンコール・ワットを造っている(アンコールの隆盛)。
ジャヤーヴァルマンは若いころ、東の隣国チャンパに長く滞在していた。その理由ははっきりしない。そのあいだに都では王位をめぐる争いが続き、1165年には王が家臣に殺されて、その家臣が王位を奪った。ジャヤーヴァルマンは急いで帰国したが、間に合わず、しばらく身を潜めていたとされる。
1177年、チャンパの王が艦隊を率いてメコン川をさかのぼり、トンレサップ湖を渡ってアンコールを不意に襲った。都は陥落し、略奪された。王を名乗っていた簒奪者も殺された。クメールの都が外敵に落とされたのは、初めてのことだった。

ジャヤーヴァルマンは兵を集めてチャンパの軍と戦い、湖の上の戦いなどでこれを破って、都を取り戻した。その戦いの様子は、のちに彼が建てたバイヨン寺院の壁に、船と兵と、水中の魚やワニまで細かく彫られている。1181年、彼は王として即位した。すでに60歳近かった。その後、チャンパに攻め込み、1190年代から一時はチャンパを支配下に置いている。
王としての彼は、大乗仏教を国の中心に置いた。そして、驚くべき速さで建設を進めた。都の中心に一辺3キロの城壁で囲まれた新しい都城、アンコール・トムを築き(ジャヤヴァルマン7世とアンコール・トム)、その真ん中にバイヨン寺院を建てた。バイヨンには、四面に巨大な顔を彫った塔が林のように並ぶ。かつては50ほどの塔があり、顔の数は200近くになる。その顔は観世音菩薩とも、王自身の姿を重ねたものとも言われ、穏やかな微笑みから「クメールの微笑み」と呼ばれる。

ほかにも、母のためにタ・プロームを、父のためにプリヤ・カーンを建てた。タ・プロームの碑文には、この寺院を維持するために1万2千人あまりが仕え、8万人近い村人が米や物資を納めていた、と書かれている。いまタ・プロームは、巨大な樹の根が石を抱き込んだ姿で知られる。
碑文には、彼が国じゅうに102の病院を建てたと書かれている。それぞれに医師、看護の者、薬を作る者を置き、米や薬草、蜂蜜を王の倉から与えた。都から各地へ延びる街道には、121の宿駅を置いたことも記されている。病院の碑文の一つには、王は自分の体の病よりも、民の病に苦しんだ、民の苦しみこそが王の苦しみであるからだ、という趣旨の句が刻まれている。

一方で、これだけの建設を一代のうちに行ったことは、民にとって重い負担でもあった。石を切り出し、運び、積み上げる労働は、農民の肩にかかった。彼の時代の寺院は、それ以前のものに比べて造りが粗いところがあり、急いで建てた跡が見えるとも言われる。
1218年頃に死去した。90代の半ばに達していたことになる。彼の死後、クメールの王たちはヒンドゥーに戻り、のちの王の時代には、彼が建てた寺院の仏像の多くが削り取られた。そして、これほどの規模の建設は、二度と行われなかった。13世紀の末にアンコールを訪れた元の使節、周達観は、まだ繁栄する都の姿を書き残しているが、国はやがて西のタイの勢力に押され、15世紀には都はアンコールを離れていく(クメール帝国)。

バイヨンの顔は、いまも密林の中から四方を見つめている。病院を建て、民の苦しみを自分の苦しみと書いた王が、同時に民に重い労働を課した王でもあった。その二つの顔を、彼の残した石は両方とも伝えている。