できごと

親鸞『教行信証』

Kyōgyōshinshō
AD1224年頃
年に諸説あり重要度 4
親鸞『教行信証』に関わる図版:Kyogyoshinsho
Kyogyoshinsho Wikimedia Commons Shinran · Public domain

概要

流罪から帰った親鸞が、関東で20年、念仏の教えを書いた。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」は弟子が『歎異抄』に記した言葉。自分で「非僧非俗」と言い、妻を持ち、寺を建てなかった。死後、娘と曾孫が本願寺を作った。

場所

京都
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府

関わった人(1)

親鸞AD1173年5月21日–AD1263年1月16日 · 著者

本文

親鸞は1173年、京都の下級の貴族の家に生まれ、9歳で出家したと伝えられる。比叡山で20年修行したが、悟りへの道は見えなかった。1201年、京都の六角堂にこもった後、法然のもとを訪ね、ただ阿弥陀仏の名を称えれば誰でも救われるという教え(法然の専修念仏)に帰依した。

1207年、法然の念仏の教えは朝廷に禁じられ、弟子の何人かは死罪となった。法然は四国へ、親鸞は越後へ流された。僧の身分を奪われ、俗人の名を与えられた親鸞は、このときから自分を「僧にあらず、俗にあらず」と言い、「愚禿」と名乗った。越後で恵信尼と暮らし、子をもうけた。僧が公然と妻を持つことは、当時の仏教の戒律では許されないことだった。1211年に罪を許されたが、翌年に法然は死に、親鸞は京都へは戻らなかった。

親鸞の肖像
親鸞Wikimedia Commons Kosigrim at English Wikipedia · Public domain

1214年ごろ、親鸞は家族とともに関東へ移り、常陸の稲田などを拠点に、20年ほど農民や武士に念仏を説いた。この間に書き進めたのが、『顕浄土真実教行証文類』、略して『教行信証』である。全6巻、教・行・信・証・真仏土・化身土の巻からなる。経典や、インドと中国と日本の高僧の書を数多く引き、それに短い自分の言葉を添えて、法然から受け継いだ教えが仏教の正しい道であることを論証しようとした。法然の教えは、ほかの宗派から激しく批判されていた。その批判に答える意図もあったとみられる。

親鸞は、救いはすべて阿弥陀仏の側から与えられるものだと考えた。人が念仏を称えるのも、信じる心が起きるのも、自分の力によるのではなく、阿弥陀仏の本願の力、つまり「他力」によるのだという。『教行信証』は、悟りに至るほんとうの原因は、ただ信心である、と述べる。念仏を何回称えたかではなく、阿弥陀仏の救いを疑いなく受け取った、その一念に救いは定まる。行の巻の終わりに置かれた「正信念仏偈」は、今も浄土真宗の門徒が朝夕に唱えている。

化身土の巻には、釈迦の死から何年たったかを計算するくだりがあり、そこに元仁元年(1224年)という年が書かれている。本願寺はこの年を浄土真宗の始まりの年としている。ただ、親鸞は晩年まで手を入れ続けており、この年に書き上がったわけではない。東本願寺に伝わる親鸞の自筆本(坂東本)は国宝で、書き加え、消し、貼り継いだ跡がそのまま残り、一人の思索の歩みを伝えている。

60歳を過ぎたころ、親鸞は京都に戻った。関東の門弟たちとは手紙で教えを交わし、和語の讃歌や解説書を多く書いた。晩年、関東の門弟の間に教えをめぐる混乱が起き、親鸞は息子の善鸞を送って収めさせようとした。だが善鸞は、自分だけが夜に父から秘密の教えを受けたと言って門弟を惑わせた。1256年、84歳の親鸞は善鸞と親子の縁を切った。1263年1月、親鸞は京都で90歳で死んだ。

親鸞の教えで最もよく知られた言葉は、『教行信証』ではなく、死後に弟子の唯円がまとめた『歎異抄』にある。善人でさえ浄土に生まれる、まして悪人はなおさらだ。世の人は、悪人でさえ救われるのだから善人はなおさらだと言うが、それは逆だ。自分の力で善を積めると思う人は、阿弥陀仏にすべてを任せる心が欠けている。自分ではどうにも迷いから抜け出せないと知る者こそ、阿弥陀仏が救おうとした相手なのだ、という。もっとも、同じ趣旨の言葉を法然のものとして伝える史料もある。『歎異抄』は誤解を招くとして、のちに蓮如が人に広く見せないよう書き添え、明治になって広く読まれるようになった。親鸞は、弟子は一人も持たない、とも言ったと『歎異抄』は伝える。

親鸞は寺を建てなかった。死後、娘の覚信尼が京都の東山の大谷に廟堂を建て、曾孫の覚如がこれを本願寺とした。15世紀、蓮如が北陸に進出し(蓮如の吉崎御坊)、教団は爆発的に広がる。門徒の団結は加賀の一向一揆となり、石山合戦では織田信長と10年戦った。17世紀の初めに本願寺は東西に分かれたが、浄土真宗は今も日本の仏教で最も信徒の多い宗派である。親鸞が「浄土真宗」と書いたとき、それは法然が明らかにした浄土の真実の教え、という意味だった。

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