鳩摩羅什の長安入り
概要
亀茲の僧が17年の抑留ののち長安に迎えられ、3000人の弟子とともに経典を訳した。『法華経』『阿弥陀経』『金剛経』『維摩経』。いま日本で読まれる経文のほとんどが、この人の漢語になる。
場所
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
関わった人(1)
鳩摩羅什AD344年–AD413年 · 訳経本文
タリム盆地の北の縁に、亀茲(クチャ)というオアシスの国があった。天山山脈の雪解け水でうるおう町で、インドと中国を結ぶ道の途中にあり、仏教の学問が盛んだった。鳩摩羅什の父はインドの名家の出で、出家を捨てて亀茲へ来て、王の妹と結ばれた。羅什は344年ごろ(350年とする説もある)、そこで生まれたとされる。
母は信仰が深く、羅什が7歳のとき、ともに出家した。9歳で母に連れられてインド北西のカシミールへ渡り、仏教の論書を学んだ。帰り道、カシュガルで大乗の教えに出会い、それまで学んだ小乗の教えから乗り換えたと伝えられる。亀茲に戻ると、若くして名が西域じゅうに響き、王は高座を設けて彼に講義をさせた。

その名は中国にも届いた。華北をまとめた前秦の王苻堅は、羅什を迎えたいと考えた。382年、将軍の呂光に西域へ兵を出させ、亀茲を攻め落とさせた。呂光は羅什を捕らえて東へ向かったが、途中で、苻堅が淝水の戦いで大敗し、前秦が崩れたことを知る。呂光は涼州(いまの甘粛省武威)にとどまって自分の国を建て、羅什をそこに置いた。
呂光は仏教を重んじなかった。羅什がまだ若いのをからかい、酒を飲ませて亀茲の王女と一室に閉じ込め、戒律を破らせたと『高僧伝』は伝える。暴れ牛や荒馬に乗せて落ちるのを見て笑ったともいう。羅什は涼州で17年近くを過ごした。つらい年月だったが、この間に彼は漢語を覚え、中国の人の考え方や言葉の癖を身につけた。これが後の翻訳を支えることになる。

401年、長安を都とする後秦の王姚興が涼州を降し、羅什を長安に迎えた。姚興は熱心な仏教徒で、羅什を国師として遇し、都の西の逍遥園に住まわせた。羅什のもとには各地から僧が集まり、弟子は3000人とも伝えられる。翻訳は個人の机の上の仕事ではなかった。羅什が原典を手に取って漢語で訳を口に出し、その場で弟子たちが意味を問い、言葉を選び、書き取った。王自身が旧い訳を手に取って照らし合わせることもあったという。
姚興は、羅什ほどの人の血を絶やしてはならないと言って、10人の女を与えた。羅什は寺の僧房を出て、別に家を構えて暮らした。弟子たちの中には彼をまねようとする者も出た。羅什は講義のたびに、自分は臭い泥の中に咲いた蓮の花のようなものだ、花だけを取って泥は取るな、と言ったと伝えられる。

訳した経典は、唐の時代の目録で35部300巻足らずとされる。『妙法蓮華経』(法華経)、『阿弥陀経』、『金剛般若経』、『維摩経』、そして龍樹の『大智度論』『中論』。羅什の訳は、原文の音を一語ずつ漢字に移すのではなく、意味をくみ取って流れのよい漢文に書き直した。原文に忠実な訳を重んじる人からは自由すぎると言われ、本人も、インドの文章を漢語に移すのは噛んだ飯を人に与えるようなもので、味を失うばかりか吐き気を催させる、と嘆いた。だが読みやすいその文は、のちの東アジアの仏教の言葉そのものになった。よく知られた「色即是空」の句も、羅什の訳した般若経にすでに見える。
中国の訳経の歴史では、羅什より前の訳を古訳、羅什から唐の玄奘までを旧訳、玄奘以後を新訳と呼ぶ。玄奘の訳は原文に厳密だが、法華経や阿弥陀経や維摩経については、その後も羅什の訳が読まれ続けた。日本でも、法華経を拠り所とする天台宗や日蓮の教え、阿弥陀経を読む浄土の教えは、みな羅什の漢文で経を唱えてきた。弟子の僧肇や道生は、中国の仏教思想の土台を築いた。

羅什は長安で10年余り訳経を続けて死んだ。没年は409年とも413年ともいわれ、定まらない。死の前、自分の訳に誤りがなければ、体を焼いても舌は焼けないだろうと言い、火葬のあと舌だけが焼け残った、と『高僧伝』は伝える。舌を祀ったとされる塔が、いまも涼州の武威に立っている。