人物

アノーヤター

Anawrahta
AD1014年 – AD1077年(享年63・推定)
バガン朝重要度 3

概要

ビルマ最初の統一王朝を作り、上座部仏教を国の柱に据えた。平原に数千の仏塔が建つ時代がここから始まる。

関わったできごと(1)

パガン朝の成立AD1044年 · 即位

本文

ビルマ(ミャンマー)の歴代の年代記は、1014年の生まれとする。エーヤワディー川の中流、乾いた平原の町バガンは、9世紀ごろからビルマ人が住みついて築いた小さな王国の都だった。南の海沿いにはモン人の町々があり、西にはアラカン、東の山地にはシャンの人々が暮らしていた。

ニャウンウーのシュエジゴン・パゴダ
ニャウンウーのシュエジゴン・パゴダWikimedia Commons Burman2k · Public domain

年代記によれば、父のクンソーチャウンピューはバガンの王だったが、王位を奪われて僧院に入れられた。成長したアノーヤターは、父から王位を奪った一族のソウカテーに挑み、1044年、一騎打ちで倒して位に就いたと伝わる。王位を父に返そうとしたが、父は僧の身のまま辞退したという。ここからバガンの国が、ビルマ最初の統一王朝へと育っていく(パガン朝の成立)。

まず手を付けたのは、国の土台となる米だった。都の南東のチャウセーの平野に古くからある水路と堰を整え、新しく開いた水田を家臣たちに分け与えた。乾いたバガンの周りでは稲はよく育たない。チャウセーの米が、軍と寺院を支える倉になった。

やったことで大きいのが、宗教の統一になる。それまでビルマでは、土着の精霊(ナッ)信仰と、アリー僧と呼ばれる僧たちの密教的な仏教が混ざっていた。年代記は、アリー僧が酒を飲み、婚礼の前夜の花嫁を求めるなど堕落していたと書くが、これは後の上座部仏教の側から書かれたものである。南のモン人の町タトンから来た僧シン・アラハンが、王に上座部仏教を説いたとされる。

経典を得るために、王はタトンのマヌハ王に三蔵を分けてくれるよう求めた。伝承では、断られたため軍を送り、1057年頃にタトンを攻め落としたとされる。王は経典と僧だけでなく、マヌハ王とその一族、職人や学者たちをバガンへ連れ帰った。モン人の文字、建築、美術が、これでバガンに流れ込んだ。マヌハ王が捕らわれの身でバガンに建てたとされる寺院は、いまも残っていて、窮屈な堂の中に身をかがめるように座る大きな仏像が、囚われの王の心を表していると語られる。

同時に、ナッ信仰を禁じなかった。民衆が拝んできた精霊の中から37を選んで公認し、神々の王である帝釈天をその上に置いた。37の精霊の像は、王の建てたシュエズィーゴン・パゴダの境内に祀られた。人々は仏塔に参れば、そこで自分たちの精霊にも会える。仏の下に位置づける形で取り込んでいる。いまもビルマで、両方が並んでいる。

外の世界との付き合いも広げた。スリランカの王ウィジャヤバーフ1世が南インドのチョーラ朝と戦っていたとき、アノーヤターは援助を送ったとされ、その縁でスリランカから三蔵の写しと、仏歯の写しを受け取った。のちのビルマとスリランカの仏教の深い結びつきは、この時代に始まる。北の雲南の大理国へ仏歯を求めに出向き、仏歯の代わりに玉の仏像を得て帰ったという話もあるが、伝説の色が濃い。

平原に仏塔を建てはじめた。シュエズィーゴンのほかにも、王はいくつもの仏塔と寺院を建てさせ、その後の王たちが続いた。250年で、バガンの平原に建てられた仏塔と寺院は1万を超えるとされる。いまも2000を超える遺構が残り、2019年に世界遺産に登録された。同じころ、東のアンコールの隆盛を迎えたクメールの王国もまた、巨大な寺院を築いていた。

王の最期について、年代記はいくつもの話を伝える。1077年、野牛の狩りに出て、その牛に突かれて死んだと伝わる。精霊に襲われたとも、待ち伏せに遭ったともいう。遺体は見つからなかったという話まである。

跡を継いだ息子ソウルーの治世は短く、反乱で倒れた。王国を立て直したのは、アノーヤターに仕えた武将チャンシッターで、シュエズィーゴンを完成させ、バガンの最盛期を開いた。バガンの国(パガン朝)は、13世紀の末にモンゴル帝国の拡大の侵入を受けて衰えるまで続いた。

ビルマの人々にとって、アノーヤターは国の始まりの王である。のちの統一の王バインナウン、アラウンパヤーとともに「三大王」に数えられ、軍事政権が築いた新しい首都ネーピードーには、三人の巨大な像が並んで立つ。上座部仏教の国という、いまのミャンマーの姿の原型は、この王の時代に形づくられた。

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