菩提達磨
概要
禅の初祖。南インドの王子、あるいはペルシア人。「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」。武帝との問答、葦の葉、面壁九年、慧可の断臂、片方の履を持って西へ帰った。すべて後の禅宗が作った。『洛陽伽藍記』の「西域の沙門菩提達磨、150歳」が唯一の同時代の記録。日本のだるまは彼。
関わったできごと(1)
達磨の渡来(伝承)AD520年頃(伝承) · 初祖本文
菩提達磨は、禅宗が「初祖」と仰ぐ僧である。「菩提」は悟り、「達磨」は法を意味するサンスクリットの音写で、略して達磨と呼ばれる。インドから中国へ渡り、壁に向かって坐り続け、禅を伝えた人として知られる。だが、この人について確かに言えることは驚くほど少ない。よく知られた逸話のほとんどは、死後二百年から五百年のあいだに禅宗の中で作られたものである。

同時代に近い記録は一つしかない。北魏の都洛陽の寺々を記した楊衒之の『洛陽伽藍記』(547年頃)である。そこには、西域から来た沙門の菩提達磨という者がいて、ペルシアの胡人であり、自ら150歳だと言っていた、と書かれている。永寧寺の九層の塔が日に輝くのを見て、これほどの寺はどの国にもないと讃え、何日も合掌して南無と唱えていたという。洛陽が最も栄えていた孝文帝の洛陽遷都と漢化以後の時代の、一人の老いた異国の僧の姿である。
7世紀の道宣の『続高僧伝』は、別の像を描く。達磨は南インドのバラモンの出で、海路で南朝の宋の領内に着き、のちに北へ渡って北魏で教えた。嵩山と洛陽のあたりを行き来し、「壁観」と呼ばれる坐禅を説き、慧可と道育という弟子がついた。達磨は慧可に『楞伽経』四巻を授けたという。ここでは、出身もペルシアではなくインドになっている。

達磨自身の言葉に近いとされるのが、20世紀に敦煌から見つかった『二入四行論』である。悟りへの入り方を、理によって入る「理入」と、行いによって入る「行入」の二つに分け、行入をさらに四つに分ける。苦しみに遭えば前世の報いと受け止める、境遇の良し悪しは縁によると知って心を動かさない、何も求めない、法にかなって行う。後世の禅の問答の鋭さとは違う、落ち着いた修行の教えである。
その後、禅宗は達磨から慧可、僧璨、道信、弘忍、慧能へと法が一人ずつ受け継がれたという系譜を立てた。この一本の線を強く打ち出したのは、慧能の弟子を名乗る神会(684〜758年)である。神会は8世紀の前半、都で栄えていた神秀の系統(北宗)を傍流だと攻撃し、慧能こそが正統(南宗)だと主張した。その論争の中で、達磨の伝記は急速に膨らんでいく。

膨らんだ逸話を並べると、こうなる。蕭衍(梁の武帝)(梁の武帝)に会い、寺を建て経を写した自分にどんな功徳があるかと問われて「功徳なし」と答えた。仏教に深く帰依した皇帝(梁の武帝の捨身)を突き放す話で、8世紀以降の禅の書物に現れ、のちに宋代の『碧巌録』の第一則になった。武帝のもとを去って長江を一枚の葦の葉に乗って渡った。嵩山の少林寺で九年間壁に向かって坐った。雪の中に立った慧可が、教えを求める決意を示すために自分の腕を切り落とした。ただし『続高僧伝』では、慧可は賊に腕を切られたと書かれている。達磨はねたむ者に毒を盛られて死に、熊耳山に葬られたが、のちに西域の山中で片方の履だけを手にして西へ帰る達磨に出会った者がいて、墓を開くと棺には履が片方残っているだけだった。いずれも唐から宋にかけて加わった話である。
「文字を立てず、教えの外に別に伝える。人の心を直に指し、本性を見て仏となる」という四句も、達磨の言葉として掲げられるが、この形にまとまったのは宋代とされる。

生まれた年も、中国へ来た年も、死んだ年も分からない。死を528年とする伝えも536年とする伝えもある(来た時期の伝承は達磨の渡来(伝承)を参照)。近代の研究には、ペルシアの胡人とインドのバラモンという二つの記録の食い違いから、複数の人物の像が一人に重なったのではないかと考える見方もある。確かなのは、6世紀の前半に北魏の洛陽周辺で坐禅を説いた外国出身の僧がいて、その弟子筋から禅宗が育ったということまでである。
禅は鎌倉時代に栄西や道元によって日本に本格的に伝わり(栄西と臨済宗)、達磨は「達磨大師」として寺に祀られた。日本には、聖徳太子が片岡山で出会った飢えた旅人が実は達磨だった、という伝説まである。

そして達磨は、日本でだけ不思議な姿をとった。壁に向かって坐り続けて手足が萎えたという話から、手足のない赤い起き上がり小法師になった。赤い色は疱瘡よけの縁起とされ、願をかけて片目を入れ、叶えばもう片方を入れる。雪だるま、だるま落とし、「だるまさんがころんだ」。ペルシアの旅人だったのか、インドの僧だったのか分からない一人の人物が、名前だけは日本の子どもの誰もが知っている。