マウリヤ朝の成立
概要
チャンドラグプタがナンダ朝を倒し、インド亜大陸初の広域帝国が生まれた。アレクサンドロスの死の翌年にあたる。
場所
25.61°N 85.14°E · インド・ビハール州パトナ
関わった人(1)
チャンドラグプタBC340年頃–BC297年頃 · 建国本文
紀元前322年頃、ガンジス川中流の大国マガダで王朝が倒れた。倒したのはチャンドラグプタという若者で、彼が建てたマウリヤ朝は、やがてインド亜大陸の北半分からアフガニスタンにまで広がる。インドの歴史で初めての、広い範囲を一つにまとめた帝国だった。アレクサンドロスの死の翌年にあたるとされ、インドの年代を世界史とつなぐ目印にもなっている。
その少し前、インドの北西の端には、ギリシアの王が来ていた。アレクサンドロスの東方遠征で、アレクサンドロスは紀元前326年にインダス川を渡り、ヒュダスペス川の戦いで地元の王ポロスを破った。だが、その先のビアース川のほとりで、兵士たちがそれ以上進むことを拒んだ。長い遠征の疲れに加えて、東の彼方に、大軍と多くの象を持つ強大な王国があるという話が兵たちを怯えさせたとされる。その王国が、ナンダ朝の治めるマガダだった。

ナンダ朝は富と軍事力で知られた。ギリシアやローマの書き手は、その王が歩兵20万、戦象数千を抱えていたと伝える。数字は大げさかもしれないが、強国だったことは確かである。一方で、インドの伝承では、ナンダの王は身分の低い出で、重い税を取り立て、民に嫌われていたと語られる。
チャンドラグプタの生まれについては、はっきりしたことが分からない。仏教の伝承は彼を由緒ある武人の氏族の出とし、ヒンドゥーの後の文献には身分の低い母の子とするものもある。ローマ時代の著述家プルタルコスは、若いころの彼がアレクサンドロスに会ったことがあると書いている。どれも確かめようがない。

伝承では、彼の背後にはバラモンのチャーナキヤがいた。ナンダの王に辱められたこのバラモンが、才能のある少年を見出して育て、ともに王朝を倒したという筋書きである。チャーナキヤはカウティリヤと同じ人とされ、統治の手引き書『実利論』の著者と伝えられる。ただ、この二人の物語の多くは、数百年後の劇や説話で広まったもので、細部は伝説の色が濃い。
確かなのは、アレクサンドロスの死後、北西インドに残されたギリシア人の総督や守備隊が数年のうちに姿を消し、その空白をチャンドラグプタが埋めたことである。彼は北西部の諸勢力をまとめ、ナンダ朝の都パータリプトラ(今のパトナ)を落として、ガンジス流域とインダス流域をともに手に入れた。どちらが先だったかについても、研究者の見方は分かれている。

紀元前305年頃、アレクサンドロスの後継者の一人で、帝国の東半分を受け継いだセレウコス1世が、失われたインドの領土を取り戻そうと攻めてきた。戦いの詳しい経過は伝わっていない。結果として結ばれた講和で、セレウコスは今のアフガニスタン南部からパキスタン西部にあたる地域を譲り、代わりにチャンドラグプタから戦象500頭を受け取った。両家のあいだに婚姻の約束もあったとされるが、誰が誰に嫁いだのかは分からない。
この500頭の象は、西で歴史を動かした。セレウコスはそれを連れて地中海の側へ戻り、紀元前301年のイプソスの戦いで、後継者たちの中で最も強大だったアンティゴノスを破った。インドの王から受け取った象が、ギリシア人どうしの覇権争いの決め手になったのである。

講和の後、セレウコスはメガステネスという使節をパータリプトラの宮廷に送った。メガステネスは長く滞在して『インド誌』を書いた。本そのものは失われたが、後のギリシアやローマの書き手の引用で断片が残っている。それによれば、都はガンジス川に沿って細長く延び、木の柵の城壁には570の塔と64の門があった。インドの社会は七つの階層に分かれ、人々は書かれた契約をあまり用いず、互いを信頼して暮らしている、とも書いている。外から見たインドの最も古いまとまった記録の一つである。
統治の様子を伝えるもう一つの史料が『実利論』である。王の心得から、役人の監督、税の取り方、外交、密偵の使い方まで、国を治める技術を事細かに説く。隣の国は敵、そのまた隣の国は味方、という考え方もここにある。善悪より効果を重んじるところから、しばしば16世紀イタリアのニッコロ・マキャヴェッリの『君主論』と比べられる。ただ、今に伝わる形の『実利論』は、何世紀にもわたって書き足されたもので、全体がチャンドラグプタの時代のものかどうかについては、議論が続いている。

チャンドラグプタは20年あまり王位にあったとされる。最期については、ジャイナ教の伝承が独特の話を伝える。王は晩年に王位を息子に譲り、ジャイナ教の師に従って南インドのシュラヴァナベラゴラへ行き、そこで食を断って死んだという。ジャイナ教の伝統で、修行の果てに断食して死を迎える作法にのっとったものとされる。この話は伝承と後の碑文で伝わるもので、同時代の記録で確かめられるわけではない。
王位は息子のビンドゥサーラに、さらにその子アショーカ王に受け継がれた。アショーカの代に帝国は南東のカリンガを征服し、最大の広がりに達する。その戦争の悔いから生まれた言葉はアショーカ王の碑文として各地の岩と石柱に刻まれた。祖父が手引き書に説かれたような冷徹な国家を築き、孫がその上で慈しみを説いた、と対比されることも多い。

マウリヤ朝はアショーカの死後半世紀ほどで衰え、紀元前2世紀の初めに滅びた。インドが再び広い範囲で一つにまとまるのは、4世紀のグプタ朝の黄金時代まで待つことになる。それでも、一人の王のもとに亜大陸の大部分を束ねるという形は、ここで初めて現れた。アレクサンドロスが引き返したその地で、インドの側から生まれた帝国だった。