蓮如
概要
本願寺8世。母は下女で、6歳で去った。43歳まで貧しく、紙を漉いて暮らした。継いだ本願寺は参詣者がいなかった。比叡山に焼かれ、吉崎、山科、石山。「御文」。5人の妻に27人の子。本願寺を日本最大の教団にした。「中興の祖」。
関わったできごと(1)
蓮如の吉崎御坊AD1471年 · 建てた本文
蓮如は、浄土真宗の本願寺の第8世である。親鸞の血を引く寺でありながら参詣する者もまばらだった本願寺を、一代で日本最大の教団にした。そのため「中興の祖」と呼ばれる。
1415年、京の東山大谷の本願寺で、第7世存如の長男として生まれた。母は寺に仕えていた女性で、名も出自も分からない。存如が正妻を迎えることになったため、母は蓮如が6歳のとき寺を去った。去り際に、幼い蓮如の姿を絵師に描かせて持って行ったと伝えられる。17歳で京の青蓮院で得度した。本願寺はこの青蓮院の末寺、つまり比叡山延暦寺の系列の一つという扱いだった。
当時の本願寺は貧しかった。親鸞の教えを継ぐ門流の中では、近江や京の仏光寺のほうがはるかに栄え、人々はそちらへ集まっていた。蓮如は部屋住みのまま妻を迎え、子が生まれても養う余裕がなく、何人かを他家へ預けた。この頃の暮らしの苦しさは、のちに息子たちの書き残した言行録に繰り返し出てくる。
1457年、存如が死んだ。継母は自分の子を後継ぎに推したが、叔父の如乗が蓮如を強く推し、43歳の蓮如が本願寺を継いだ。ここから蓮如は動き出す。「南無阿弥陀仏」や「帰命尽十方無碍光如来」の名号を紙に書いて門徒に与え、家々の本尊にさせた。高価な仏像や絵像の代わりに、誰でも手にできる本尊である。そして1461年から、教えを平易な仮名の手紙に書いて各地の門徒に送り始めた。これが「御文」(御文章)である。字の読めない者でも、寄合で読み上げられるのを聞けば分かる言葉で書かれていた。
急に勢いを得た本願寺を、比叡山は見逃さなかった。1465年、延暦寺の衆徒は本願寺を「無碍光宗」という邪義だとして襲い、大谷の堂を打ち壊した。蓮如は親鸞の木像を抱えて近江へ逃れ、堅田や金森の門徒のあいだを転々とした。京ではまもなく応仁の乱が始まる。

1471年、蓮如は越前と加賀の境に近い吉崎に移り、坊舎を建てた(蓮如の吉崎御坊)。北陸の門徒が押し寄せ、周囲には宿坊が立ち並んで町ができた。御文の数もこの時期に最も増える。ところが門徒の数が膨らむと、彼らは地元の守護大名の争いに巻き込まれていく。1474年、加賀の守護富樫家の内紛で、門徒は政親の側について戦った。蓮如は武力に頼ることを戒め、翌1475年、吉崎を去った。
畿内に戻った蓮如は、1478年から京の東の山科に新しい本願寺を築き始めた。御影堂と阿弥陀堂を備え、堀と土塁で囲まれ、門徒や商工業者の住む町を内側に抱えた寺である。こうした「寺内町」は、のちに各地の真宗寺院が真似る形になった。その間の1488年、加賀の門徒は守護の富樫政親を攻め滅ぼし(加賀の一向一揆)、以後およそ百年、門徒の勢力が加賀を治めることになる。蓮如はこの一揆を叱る御文を出している。息子の実悟は、そのころの加賀が「百姓の持ちたる国」のようになったと書き留めた。

蓮如が門徒に説いたのは、阿弥陀仏を信じる心が定まったときに救いは決まっており、念仏はその恩に報いるために唱えるものだ、という親鸞の教えだった。同時に、領主に逆らわず世間の法を守れ(王法為本)とも説いた。信仰は内に深く持ち、外では争うな、という二つの教えの間で、門徒の現実はしばしば後者を越えていった。また自分たちの宗派を「一向宗」と呼ぶことを嫌い、「浄土真宗」と名乗るべきだと書いている。
御文の中で最もよく知られているのが「白骨の御文」である。人の命のはかなさを説き、朝には紅顔ありて夕べには白骨となる身である、と続く。いまも真宗の葬儀で読まれている。
1489年、蓮如は寺を五男の実如に譲って隠居した。それでも布教はやめず、1496年には摂津の大坂の小高い丘に坊舎を建てた。のちの石山本願寺である。「大坂」という地名が文書に現れる早い例は、この地について書いた蓮如の御文だとされる。この寺はやがて本願寺の本拠となり、蓮如の死から70年後、織田信長と十年にわたって戦うことになる(石山合戦)。

蓮如は生涯に5人の妻を迎えた。いずれも先の妻に先立たれてのことである。子は13男14女の27人にのぼり、最後の子は84歳のときに生まれた。息子たちは各地の有力寺院に入り、本願寺を中心とする一門の網の目になった。
1499年、山科で死んだ。数えの85歳。親鸞は自分に弟子は一人も持たないと言った人だった。蓮如はその教えを、寺と町と手紙で結ばれた巨大な組織に変えた。のちの東西の本願寺は、どちらもこの人の作ったものの上に立っている。