人物

アショーカ王

Ashoka
BC304年頃 – BC232年(享年72・推定)
マウリヤ朝重要度 5

概要

カリンガ征服の惨禍を悔いて仏教に帰依し、法(ダルマ)による統治を掲げて碑文を各地に建てた。

所属

マウリヤ朝

関わったできごと(2)

カリンガ戦争とアショーカの改宗BC261年 · マウリヤ側 · 総指揮アショーカ王の碑文BC260年頃 · 当人

本文

マウリヤ朝を開いたチャンドラグプタの孫で、父はビンドゥサーラ王。生まれた年ははっきりせず、紀元前304年頃とされる。若い頃、父に命じられて北西の都市タキシラの反乱を鎮め、のちに西インドのウッジャインで総督を務めたと伝わる。

アショーカの妃(1910年作)
アショーカの妃(1910年作)Wikimedia Commons Abanindranath Tagore · Public domain

父の死後、王位を巡る争いがあった。仏教の伝承は、彼が兄弟99人を殺して即位したと語る。ただこれは、仏教に帰依する前の彼を暴虐な王として描き、改心をより劇的に見せるための誇張だと考えられている。自身の碑文には、兄弟や姉妹の家族を気遣う文言もある。即位はおよそ紀元前268年頃とされる。

治世の前半は、祖父と父が広げた帝国をさらに広げることに費やされた。即位から8年目、東海岸のカリンガ国を征服する(カリンガ戦争とアショーカの改宗)。カリンガは南インドへの交易路を押さえる豊かな国で、マウリヤ朝に従っていなかった。

カリンガ戦争とアショーカの改宗に関わる図版:Chandragupta Maurya Empire
カリンガ戦争とアショーカの改宗Wikimedia Commons Jagged 85 at English Wikipedia · Public domain

この戦争のことを、彼は自ら刻ませた碑文に書いている。15万人が連れ去られ、10万人が殺され、その何倍もの人が死んだ。そして神々に愛された王は、いま深く悔いている、と。兵士だけでなく、巻き込まれた僧や在家の人々、その身内の苦しみにも触れている。征服者が、自分の起こした戦争の被害を数字で刻ませた例は、他にほとんど無い。

以後、彼は武力による征服をやめ、法(ダルマ)による統治を掲げた。ダルマは仏教の教えを指すことばでもあるが、碑文に書かれた中身は特定の宗派の教義ではない。親と師を敬え、年長者を大切にせよ、奴隷や使用人を正しく扱え、生き物を殺すな、ものを惜しみなく施せ。誰にでも通じる日常の徳目が並ぶ。

サーンチー第1塔南門の浮彫。アショーカ王のラーマグラーマ訪問
サーンチー第1塔南門の浮彫。アショーカ王のラーマグラーマ訪問Wikimedia Commons Photo Dharma from Sadao, Thailand · CC BY 2.0

征服したカリンガに向けた別の碑文では、すべての人はわが子である、と書いている。わが子がこの世でもあの世でも幸せであるよう願うのと同じように、すべての人の幸せを願う、と。王の務めについても、食事の席でも寝所でも庭でも、いつでも民の事柄を報告させよ、と命じている。国の仕事に終わりは無く、それが王の負う借りを返すことだ、という言い回しもある。

その言葉を、彼は帝国の各地に刻ませた(アショーカ王の碑文)。崖の岩肌や、磨き上げた砂岩の石柱に、土地ごとの言葉と文字で書かせている。北西部ではギリシア語とアラム語の碑文も見つかっている。王の声を臣下に直接届けようとしたこの試みは、インドの歴史で最初のまとまった文字資料にもなった。

ローマス・リシ洞窟の入口(アショーカ王時代の石窟)
ローマス・リシ洞窟の入口(アショーカ王時代の石窟)Wikimedia Commons Photo Dharma from Penang, Malaysia · CC BY 2.0

他の宗派への寛容は、碑文の中心の一つである。自分の宗派を讃えるために他を貶せば、かえって自分の宗派を深く傷つけることになる、と書いている。仏教の教団に寄進する一方で、バラモンや、ジャイナ教、アージーヴィカ教の修行者にも施しをした。アージーヴィカ教徒のために岩を掘った洞窟の寄進碑文も残る。

生き物を殺さないという方針は、自分の食卓から始めている。碑文によれば、かつて王の厨房では毎日数十万の生き物が料理のために殺されていたが、いまは孔雀2羽と鹿1頭だけになり、それもやがてやめる、という。人と家畜のための薬草を植えさせ、街道には木陰を作るための樹木を植え、井戸を掘り、休憩所を設けた。地方を巡ってダルマを広め、人々の暮らしを見る役人も置いた。

アショーカ王がラーマグラーマで仏舎利を得ようとしたが果たせなかった場面(サーンチー第1塔南門)
アショーカ王がラーマグラーマで仏舎利を得ようとしたが果たせなかった場面(サーンチー第1塔南門)Wikimedia Commons Photo Dharma from Sadao, Thailand · CC BY 2.0

使節も外へ送った。碑文には、ギリシア人の王たち、シリアのアンティオコス、エジプトのプトレマイオスら5人の名が挙げられている。スリランカへは、息子のマヒンダが仏教を伝えたとスリランカの年代記は伝える。上座部仏教の伝承では、都パータリプトラで経典をまとめ直す集会が彼の後援で開かれたとされる。インドの一地方の教えだった仏教が、アジアの広い地域に広がる大きなきっかけを作った(物語「インドと仏教」)。

一方で、彼は軍を解いたわけではない。碑文は辺境の森の民に、王は悔いているが力も持っていると告げ、罪を犯せば罰すると警告している。死刑も廃止していない。理想を掲げながら、帝国を保つための現実は手放さなかった。

ルンビニー法勅に刻まれた「デーヴァーナンピヤ・ピヤダシ」の文字
ルンビニー法勅に刻まれた「デーヴァーナンピヤ・ピヤダシ」の文字Wikimedia Commons Photo Dharma from Penang, Malaysia · CC BY 2.0

晩年については、仏教の伝承しかない。教団への寄進があまりに多く、大臣たちが国庫を守るために王の手から財を取り上げ、最後には半分のマンゴーしか施すものが残らなかった、という話が伝わる。紀元前232年頃に死んだ。

死後、帝国は分裂へ向かった。およそ50年後の紀元前185年頃、最後の王が将軍に殺され、マウリヤ朝は終わる。帝国の広さに比べて、それを支える官僚の仕組みや交通が追いつかなかったとみる研究者が多い。

パータリプトラ、クムラハール遺跡のマウリヤ朝期の列柱堂跡
パータリプトラ、クムラハール遺跡のマウリヤ朝期の列柱堂跡Wikimedia Commons 1912-1913 Archaelogical excavations by ASIEC · Public domain

碑文の文字は、やがて誰にも読めなくなった。1837年、イギリス東インド会社のジェームズ・プリンセプがブラーフミー文字を解読し、そこに刻まれた「神々に愛された温顔の王」の言葉が二千年ぶりに読まれた。この王が仏典に伝わるアショーカと同じ人物だと確かめられたのは、王の名を記した碑文が見つかった20世紀初めのことである。サールナートの石柱の頂にあった四頭の獅子の像は、いま独立インドの国章になっている。国旗の中央の法輪も、彼の石柱に由来する。

動画(1)

【世界史③/10】面白すぎる!インド史ざっくり丸わかり【2019年版】中田敦彦のYouTube大学 - NAKATA UNIVERSITY2019年版世界史の第3回。インド史を一回で通す
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
BC304年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →