人物

日蓮

Nichiren
AD1222年3月30日 – AD1282年11月14日(享年60)
鎌倉幕府重要度 5

概要

安房の漁村の子。比叡山で学び、「法華経だけが正しい」と清澄山で唱えた。念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊。伊豆と佐渡に流され、斬られかけた。「日本の柱とならん」。身延山。弟子は六人に分かれ、宗派は日本で最も多く分かれた。

関わったできごと(2)

『立正安国論』AD1260年(文応元年) · 建白元寇1274年 · 予言したと

本文

1222年、安房の国の東条郷、太平洋に面した小湊の漁村に生まれた。のちに自分のことを、漁師の子、身分の低い者の子と書いている。権力ある者に生まれなかったことを恥じるのではなく、むしろ誇るような書きぶりである。

日蓮の肖像(波木井の御影)
日蓮の肖像(波木井の御影)Wikimedia Commons Fujiwara-no Chikayasu · Public domain

12歳で、近くの清澄山の寺に入った。寺の本尊の虚空蔵菩薩に、日本第一の智者にしてください、と祈ったと自ら書き残している。16歳で出家し、蓮長と名のった。そこから鎌倉、そして比叡山へ向かい、京都や奈良の寺々も巡って、10年あまり仏教の経典と諸宗の教えを学んだ。当時の仏教は、天台、真言、禅、律、そして法然が広めた念仏など、多くの宗派に分かれていた。どれが釈迦の本当の教えなのか。蓮長がたどり着いた答えは、法華経こそが釈迦の最高の教えであり、ほかの教えは人を迷わせる、というものだった。法華経を重んじること自体は、比叡山を開いた最澄以来の天台宗の伝統でもある。だが蓮長は、それを他の宗派への激しい批判と結びつけた。

1253年、32歳の春、故郷の清澄山に戻った蓮長は、朝日に向かって「南無妙法蓮華経」と唱え、法華経の題目を唱えることこそが救いの道だと説き始めた。名を日蓮と改めたのも、このころとされる。日と蓮。太陽のように世を照らし、泥の中から清らかに咲く蓮のように、という意味が込められていると言われる。だが念仏を厳しく批判したため、念仏を信じていた土地の地頭の怒りを買い、清澄山を追われた。

日蓮上人像、長崎市本蓮寺
日蓮上人像、長崎市本蓮寺Wikimedia Commons neeel · CC BY 2.0

日蓮は鎌倉に移り、松葉ヶ谷に小さな庵を結んで布教を始めた。そのころの鎌倉は、大地震、暴風雨、飢饉、疫病が次々に襲い、道ばたに死体が転がる有様だった。なぜこれほどの災いが続くのか。日蓮は経典を調べ抜き、答えを出した。人々が正しい法である法華経を捨てて、念仏のような誤った教えを信じているから、国を守る善い神々が去り、悪い鬼が入り込んでいるのだ。このまま誤った教えを放っておけば、経典に説かれた災いのうち、まだ起きていない二つが必ず起きる。国の内での反乱と、外国からの侵略である。

1260年、日蓮はこの考えを『立正安国論』にまとめ、幕府の最高実力者だった前の執権北条時頼に差し出した(『立正安国論』)。正しい教えを立てて国を安らかにする、という意味の題である。幕府はこれを取り上げなかった。それどころか、念仏の信者たちが日蓮の庵を焼き討ちにし、翌1261年には幕府が日蓮を伊豆の伊東に流した。赦されて故郷に戻った1264年には、地頭の軍勢に襲われ、額に傷を負い、弟子を殺されている。

晩年の日蓮と弟子たち。『自我偈絵抄続編』1818年
晩年の日蓮と弟子たち。『自我偈絵抄続編』1818年Wikimedia Commons ウィキ太郎 (Wiki Taro) · Public domain

1268年、モンゴルの皇帝フビライの国書が日本に届き、服従を迫った。外国からの侵略という予言が現実になろうとしていると見た日蓮は、幕府の要人や鎌倉の大寺の僧たちに次々に書状を送り、公開の場での宗論を求めた。日蓮が他の宗派を攻撃した言葉は、のちに「四箇格言」としてまとめられる。念仏を唱える者は無間地獄に落ちる、禅は天魔の教え、真言は国を滅ぼす、律宗は国賊である。

1271年、幕府はついに日蓮を捕らえた。幕府の実力者平頼綱の軍勢に連行された日蓮は、夜中に鎌倉の外れの龍ノ口の刑場に引き出され、首を斬られかけた。そのとき、江の島の方角から光る物が飛んできて、太刀取りの目がくらみ、処刑は取りやめになった、と日蓮自身が後に書いている。この出来事が実際にどういうものだったのかは分からないが、日蓮はこれを、法華経の行者として一度死んで生まれ変わった体験として受け止めた。

日蓮を荼毘(だび)に付した場所に建立された多宝塔(池上本門寺)
日蓮を荼毘(だび)に付した場所に建立された多宝塔(池上本門寺)Wikimedia Commons ウィキ太郎 · Public domain

処刑の代わりに、佐渡への流罪が言い渡された。真冬の佐渡で日蓮が住まわされたのは、塚原と呼ばれる死人を捨てる野原にある、屋根も壁も破れた小さな堂だった。雪が吹き込み、食べ物も乏しかった。その中で日蓮は、主著となる『開目抄』と『観心本尊抄』を書き上げた。『開目抄』には、我日本の柱とならん、我日本の眼目とならん、我日本の大船とならん、という誓いの言葉がある。どれほどの迫害を受けても、日本の人々を救う柱であり、目であり、船であろうとする決意だった。題目を中心に書き表した曼荼羅を本格的に描くようになったのも、この佐渡の時期である。

1274年、日蓮は赦されて鎌倉に戻った。平頼綱に呼び出されてモンゴルはいつ攻めてくるかと問われると、今年のうちに必ず来ると答えたという。そして三度諫めて聞き入れられなければ山林に入る、という古い教えに従って、甲斐の身延山に退いた。その年の秋、モンゴルと高麗の軍が九州の博多湾に攻め寄せた(文永の役)。7年後には二度目の襲来があった(弘安の役)。

『立正安国論』(巻頭部分、日蓮撰・筆、法華経寺蔵、国宝)
『立正安国論』(巻頭部分、日蓮撰・筆、法華経寺蔵、国宝)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

身延山での日蓮は、弟子たちを育て、各地の信者に宛てて数多くの手紙を書いた。夫を亡くした妻、子を亡くした親、主君の不興を買った武士。手紙には、激しい論争家の顔とは違う、細やかな思いやりがあふれていて、今も多くの人に読まれている。

1282年、病が重くなった日蓮は、常陸の温泉で療養するため身延山を出た。その途中、武蔵の池上(今の東京都大田区)の信者の屋敷で、10月に亡くなった。数えで61歳だった。

『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』(巻頭部分、日蓮撰・筆、法華経寺蔵、国宝)
『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』(巻頭部分、日蓮撰・筆、法華経寺蔵、国宝)Wikimedia Commons Nichiren · Public domain

日蓮は死の前に、6人の高弟を定めて後を託した。だが弟子たちは教えの解釈をめぐって対立し、日興は身延山を離れて富士のふもとに大石寺を開いた。その後も分裂は重なり、日蓮の流れをくむ宗派は、日本の仏教の中でも特に多くの派に分かれた。江戸時代には、法華経を信じない者からは施しを受けず、施しもしないという不受不施派が幕府から厳しく弾圧された。

近代になると、日蓮の教えは新しい形で人々を惹きつけた。在家の信者の団体国柱会を作った田中智学は、日蓮の教えを国家の思想と結びつけ、満州事変を計画した軍人石原莞爾も、詩人で童話作家の宮沢賢治も、この会に加わった(宮沢賢治の遺したもの)。日蓮の教えに立つ在家の団体も次々に生まれ、なかでも創価学会の始まりは戦後、巨大な教団に成長した。

法華経のためなら命も惜しまず、国の権力者に正面から意見し、他の宗派を容赦なく攻撃した。日本の仏教の歴史の中で、これほど激しく、これほど国家と向き合った僧はほかにいない。日蓮が考えていたのは、個人の救いと同時に、国そのものをどう救うかということだった。国を安んじるために国に逆らい続けた生涯だった。

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