空海
概要
唐で密教を二年で受け継ぎ、高野山に真言宗を開いた。書と土木と辞書編纂にも名を残す。いまも入定していることになっている。
所属
日本関わったできごと(2)
最澄と空海の入唐AD804年 · 渡唐空海の高野山開創AD816年(弘仁7年) · 開いた本文
774年、讃岐国多度郡(いまの香川県善通寺市のあたり)の豪族、佐伯氏の家に生まれた。幼名は真魚と伝えられる。母方の叔父の阿刀大足は皇族の教育係を務める学者で、少年はこの叔父について漢籍を学んだ。18歳で都の大学に入り、役人になるための儒学を学びはじめた。

だが、大学の学問は彼を満たさなかった。ある僧から、真言を百万回唱えればあらゆる経典を暗記できるようになるという虚空蔵求聞持法を授かると、大学を去り、山野を巡る修行に入った。阿波の大滝嶽によじ登り、土佐の室戸の岬で真言を唱えていると、明けの明星が飛んで来て体に入った、と自ら書いている。24歳で書いた『三教指帰』は、儒教、道教、仏教の代表者に議論をさせ、仏教が最も優れていると結論づける戯曲仕立ての書で、自分が官吏の道を捨てた理由の説明でもあった。そこから入唐までの数年の足取りは、ほとんど分かっていない。
804年、31歳で遣唐使の船に乗った。正式な僧になったのは出発の直前だったとされる。同じ船団の別の船には、すでに名のある僧として天皇の後ろ盾を受けた最澄が乗っていた(最澄と空海の入唐)。空海の乗った大使の船は嵐で南へ流され、予定外の福州の海岸に着いた。役人に密輸船と疑われて上陸を許されなかったが、空海が大使に代わって書いた嘆願の文章の見事さが役人を動かし、一行はようやく受け入れられたと伝わる。

805年、長安の青龍寺で、密教の第一人者だった恵果に出会った。恵果は空海を見るなり、お前が来るのを待っていた、と言ったと空海は記している。わずか3か月ほどの間に、密教の二つの体系である胎蔵と金剛界の灌頂を次々に授け、正統の後継者と認めた。その年の暮れ、恵果は亡くなった。大勢の弟子の中から、師の業績を讃える碑文を書く役に選ばれたのは、来て間もない日本の僧だった。
本来は20年の留学の予定だったが、空海はわずか2年で帰国の船に乗った。膨大な経典、仏画、法具を携えていた。予定を勝手に切り上げたことは国の命令に背く罪にもなりかねず、空海はしばらく九州に留め置かれた。都に入るのを許されたのは809年、嵯峨天皇の代になってからである。

先に帰国していた最澄は、密教を十分に学べずに帰ったことを自覚していた。年長で地位も上の最澄が、空海に頭を下げて灌頂を受け、経典を借りて写した。だがやがて、最澄が密教の奥義を説く経典の借用を求めると、空海は、密教は文字を読むだけでは伝わらない、師から直に受けるものだと言って断った。最澄の弟子が空海のもとに留まって戻らなかったこともあり、二人の交わりは途絶えた。最澄に宛てた空海の手紙「風信帖」は、国宝として残っている。
816年、嵯峨天皇から紀伊の山中の高野山を賜り、修行の道場を開いた(空海の高野山開創)。823年には、平安京遷都の入口に立つ官寺の東寺を任された。こうして、都の東寺と山の高野山を拠点に、真言宗が形を整えていった。

空海の仕事は、宗教だけに留まらなかった。821年、故郷の讃岐で、何度も決壊していた大きな溜め池、満濃池の修築を任された。人々が空海の名を聞いて集まり、工事は3か月ほどで終わったとされる。828年には、身分を問わず誰もが学べる学校として綜芸種智院を開いた。漢字の字書『篆隷万象名義』は、日本に現存する最古の字書である。詩文の理論書も著した。
書の名手としても名高い。王羲之の書風を学び、嵯峨天皇、橘逸勢とともに「三筆」と呼ばれた。いろは歌を作ったのは空海だという話が広く知られているが、これは後世の言い伝えで、根拠は無い。

835年3月、高野山で亡くなった。62歳。真言宗では、空海は死んだのではなく、高野山の奥之院で今も瞑想を続けている、と考える。これを入定という。921年、醍醐天皇から弘法大師の名を贈られた。奥之院では今も、毎日2度、大師のもとへ食事が運ばれている。
「弘法も筆の誤り」という言葉が残り、日本各地には大師が杖を突いて湧かせたという泉の伝説がある。四国の88か所の霊場を巡る遍路は、大師と同行二人で歩く旅とされる。歴史上の空海は、留学僧であり、思想家であり、土木の監督であり、書家だった。そして日本人の記憶の中では、千年以上たった今も、どこかを歩き続けている人である。