ボロブドゥールの造営
概要
世界最大級の仏教遺跡。インドから海を渡った信仰が、ジャワで独自の形になった。
場所
-7.61°N 110.20°E · インドネシア・ジャワ島
本文
8世紀から9世紀にかけて、ジャワ島中部の肥沃な盆地は、インドから海を渡ってきた二つの信仰の舞台だった。ヒンドゥー教を奉じる王家と、大乗仏教を篤く信じるシャイレーンドラ朝である。インド洋と南シナ海を結ぶ航路の上では、スマトラのシュリーヴィジャヤの海上交易が交易で栄え、僧や商人がインドと中国の間を行き来していた。ボロブドゥールは、その海の道がもたらした仏教が、ジャワで独自の形をとった建物である。
建てられたのは800年前後、780年ごろから830年ごろにかけて、何代かにわたって工事が続いたとみられる。シャイレーンドラ朝の王たちが建てたと考えられているが、建立の経緯をはっきり記した碑文は見つかっていない。名前の由来も、「丘の上の僧院」を意味する言葉から来たという説などがあり、定まらない。

ボロブドゥールは塔でも寺院でもない。自然の丘を土台にし、その表面を石で覆って築いた巨大な壇である。内部に入る部屋はない。基壇の上に方形の壇が5層重なり、その上に円形の壇が3層、頂上に大きなストゥーパが一つ立つ。使われた安山岩は数十万個から百万個以上と見積もられ、近くの川から運ばれた。一辺はおよそ120メートルある。
方形の壇には回廊がめぐり、その壁と欄干に浮彫りが刻まれている。物語を描いたものだけで1460面にのぼる。釈迦の前世の物語、釈迦の生涯、そして悟りを求めて善知識を訪ね歩く善財童子の旅が描かれている。参拝者は東の階段から上り、建物を右手に見ながら時計回りに各層を回って、少しずつ上へ進む。全部を順に見ると5キロほど歩くことになる。下の層の浮彫りには、王宮や船、市場、田畑、楽器など、当時のジャワの暮らしがそのまま写し込まれていて、船の浮彫りは当時の外洋船を知る手がかりにもなっている。

上の円形の壇に出ると、浮彫りは消える。格子状に穴のあいた小さなストゥーパが72基、輪になって並び、その中にそれぞれ仏像が座っている。回廊の壁に囲まれていた視界が、ここで一気に開け、周りの火山と緑の平野が見渡せる。形あるものの世界から、形のない悟りの世界へ。建物全体が、仏教の宇宙観を歩いてたどる道として組み立てられていると解釈されている。仏像は全部で500体余りある。
建物のいちばん下には、隠された浮彫りがある。最初に造られた基壇には、善い行いと悪い行いがどんな報いをもたらすかを描いた160面の浮彫りがあったが、工事の途中で外側に石が積み増され、見えなくなった。重みで崩れるのを防ぐためとも、宗教上の理由とも言われる。19世紀末に一度掘り出して写真に撮ったあと再び埋め戻され、いまは南東の隅の一部だけが見えている。浮彫りのそばに刻まれた短い指示書きの文字が、建てられた時期を推定する手がかりになった。

ボロブドゥールの完成から間もなく、すぐ近くにはヒンドゥー教の壮麗な寺院群プランバナンが建てられた。二つの信仰の王家は、婚姻などを通じて結びついていたとみられる。10世紀に入ると、中部ジャワの王権は東ジャワへ移った。その理由は分かっていない。近くのムラピ山の噴火を挙げる説もあるが、確かではない。ボロブドゥールは次第に忘れられ、火山灰と草木に覆われていった。
1814年、ジャワを一時統治していたイギリスのスタンフォード・ラッフルズが、埋もれた大きな遺跡があるという話を聞き、技師を送って調べさせた。数百人の村人が密林を切り払い、灰を取り除いて、ボロブドゥールは再び姿を現した。その後のオランダ統治時代には、浮彫りの石や仏像が持ち去られることもあった。20世紀の初めにオランダの技師による修復が行われ、1970年代から80年代にはユネスコの国際協力で、いったん石を解体して排水を整え、積み直す大規模な修復が行われた。
1991年、周辺の寺院とともに世界遺産に登録された。現在のインドネシアはイスラム教徒が大半を占める国だが、ボロブドゥールは国を代表する遺産として大切にされ、年に一度、釈迦の誕生と悟りと入滅を記念する祭りの日には、各地から仏教徒が集まって灯明をともす。インドで生まれ、海を渡り、ジャワで形を変えた信仰の記念碑は、いまもアンコールの隆盛と並ぶ東南アジアの古代建築の頂点に数えられている。