ソンツェン・ガンポ
概要
高原の諸部族を一つにし、唐とネパールから妃を迎えた。チベット文字はこの王の命で作られたと伝わる。
所属
吐蕃関わったできごと(2)
吐蕃の高原統一AD630年頃 · 王文成公主の入蔵AD641年 · 迎えた本文
7世紀の初め、チベット高原は多くの氏族や小王国に分かれていた。その南部、ヤルルン渓谷に根を張る王家が、周りの氏族を味方に引き入れ、あるいは服属させて力を伸ばしつつあった。ソンツェン・ガンポは、その王家に生まれた。生年ははっきりせず、605年頃とも617年頃ともいわれる。

同じ時代の確かな記録は少ない。20世紀の初めに敦煌の石窟から見つかった古いチベット語の年代記や、中国の唐の歴史書が、ほぼ唯一の手がかりである(敦煌の石窟の造営)。チベットで後世に書かれた歴史書は、彼を仏教の守護者として大きく描いており、伝説が多く混じる。
父のナムリ・ソンツェンは、有力な氏族の協力を得て高原中部に支配を広げたが、やがて毒殺された。若くして後を継いだソンツェン・ガンポは、父に従っていた氏族の反乱にさっそく直面した。彼はそれを鎮め、反乱に加わった者を罰し、王に従う者には土地と地位を与えた。さらに、西の高原を支配していた強国シャンシュンを、婚姻で結びつけたのち、のちに攻め滅ぼしたとされる。こうして、高原の大部分が初めて一つの王のもとにまとまった(吐蕃の高原統一)。中国の史書は、この国を「吐蕃」と呼んだ。

都は、のちにラサと呼ばれる地に移された。キチュ川のほとりの平らな土地で、高原の交通の要だった。後の時代にポタラ宮が建つ丘の上にも、彼の宮殿があったと伝えられる。
東では、唐が中国を統一したばかりだった(唐の成立)。634年、ソンツェン・ガンポは唐に使者を送り、翌年以降、皇帝の一族の娘を妃として迎えたいと求めた。唐の唐の太宗はこれを断った。すると吐蕃の軍は、唐に従う青海の遊牧国家・吐谷渾を攻め、さらに唐の国境の城を囲んだ。唐の反撃を受けて引いたが、改めて使者を送り、多くの黄金を贈って婚姻を求めた。641年、太宗は一族の娘を公主としてチベットへ送った(文成公主の入蔵)。文成公主である。唐にとっても、高原に生まれた新しい強国と争うより、婚姻で結ぶほうが得策だった。

チベットの伝承では、ソンツェン・ガンポはネパールからも王女ブリクティを妃に迎えたとされる。二人の妃がそれぞれ仏像を携えてきて、それを納めるためにラサのジョカン寺とラモチェ寺が建てられた、と語られる。ただし、ネパールの王女については同時代の記録に見えず、実在を疑う研究者もいる。
チベットの文字も、この王の時代に作られたと伝えられる。王は大臣のトンミ・サンボータをインドへ遣わし、そこで学んだ文字をもとに、チベット語を書き表すための文字を作らせた、という。トンミ本人については伝説的な部分が多いが、チベット文字がインドの文字の系統をひくこと、7世紀頃に作られ、まもなく行政の記録に使われ始めたことは確かとされる。文字によって、法を定め、税や兵役のための人口を調べ、命令を遠くまで届けることができるようになった。官位の制度や法典も、この時代に整えられたと伝えられる。

後世のチベットの歴史書は、ソンツェン・ガンポを、仏教をチベットに初めてもたらし、仏の教えに基づいて国を治めた王として描いた。だが、仏教がチベットで国の宗教として根づくのは、1世紀以上後の8世紀後半のことである。この王の時代には、仏教は外国から来た妃たちの信仰として、宮廷の一角に入ってきたにすぎなかったと考えられている。
晩年、息子に先立たれ、自ら再び王位に戻ったとも伝えられる。649年頃に亡くなった。唐の記録では650年とする。王位は幼い孫が継ぎ、実権は有力な大臣の一族に握られた。
彼の築いた王国は、その後200年近く続き、強大な帝国になった。8世紀には唐の西域の支配を脅かし、763年には一時、唐の都長安を占領している(吐蕃の長安占領)。9世紀半ばに王統が分裂して帝国は崩れたが、文字と、統一された高原という記憶は残った。
チベットの人々にとって、ソンツェン・ガンポは国を作った最初の偉大な王であり、慈悲の菩薩である観音の化身として信仰されてきた。いまのダライ・ラマ14世もまた、観音の化身とされている。ラサのポタラ宮には、いまも王と二人の妃の像が祀られている。