顕如
概要
本願寺11世。12歳で継いだ。石山本願寺で信長と10年戦った。全国の門徒を動かし、毛利、武田、上杉、朝倉、浅井と組んだ。1580年、天皇の仲介で退去。長男教如は退去を拒んで信長と戦い続け、顕如は教如を勘当した。秀吉が京都に土地をくれて、本願寺。死後、教如が東本願寺を作って、東西に割れた。
関わったできごと(1)
石山合戦AD1570年(元亀元年) · 立った本文
1543年、摂津の大坂にあった石山本願寺で生まれた。父は本願寺10世の証如で、名は光佐、顕如は法名である。浄土真宗の本願寺は、宗祖親鸞の血を引く者が代々継ぐ寺で、顕如は親鸞から数えて11代目にあたる。1554年、父の死によって12歳で本願寺を継いだ。若い宗主を支えたのは祖母や家臣の僧たちだった。
顕如が継いだ本願寺は、ただの寺ではなかった。15世紀後半、8世の蓮如が、やさしい言葉の手紙(御文)で教えを広め、北陸を中心に門徒を爆発的に増やした(蓮如の吉崎御坊)。門徒たちは村ごとに講という集まりを作り、加賀では守護を倒して、100年近く国を自分たちで治めた(加賀の一向一揆)。大坂の石山本願寺は、堀と土塁で囲まれた寺内町を持ち、商人や職人が集まる大きな町だった。全国の門徒から志が届き、本願寺は経済力でも軍事力でも、戦国大名に引けを取らない存在になっていた。
顕如の代で、本願寺は朝廷の格式も手に入れた。妻は公家の三条公頼の娘で、その姉は甲斐の武田信玄の正室である。1559年には、皇族や摂関家の子弟が入る寺に許される門跡の位を朝廷から得た。本願寺は、宗教の頂点であると同時に、公家社会と大名社会の両方につながる勢力になった。
1568年、織田信長が足利義昭を奉じて京に上った。信長は畿内の寺や町に軍資金を求め、本願寺にも求めた。本願寺は応じたが、信長は石山の地そのものを欲しがったと伝えられる。大坂は淀川の河口にあって、京へも瀬戸内海へも通じる要の地だった。1570年9月、信長が摂津で三好勢と戦っているさなか、顕如は突然、信長に兵を向けた。全国の門徒に送った手紙で、信長は仏法を滅ぼそうとしている、これに立ち向かわない者は門徒ではない、と呼びかけた。ここから10年にわたる戦いが始まる(石山合戦)。

顕如は、信長に敵対する大名たちと結んだ。越前の朝倉氏、近江の浅井氏、甲斐の武田氏、中国の毛利氏、のちには越後の上杉謙信とも手を結んだ。将軍義昭も信長と対立すると、この輪に加わった。各地の門徒も一揆を起こした。伊勢の長島では門徒が城にこもって信長を何度も退け、信長の弟を討ち取った。
だが信長は一つずつ敵を倒していった。朝倉と浅井は1573年に滅び、武田信玄は西へ向かう途中で病死した。1574年、信長は長島の一揆を囲み、降伏して城を出た者まで討ち、残った者を柵で囲んで焼き殺した。死者は2万人とも言われる。翌年には越前の一揆も平らげ、ここでも数万人が殺されたと記録される。門徒たちにとって、この戦いは極楽往生を信じての命がけの戦いだった。

石山本願寺そのものはなかなか落ちなかった。信長は周りに砦を築いて囲んだが、毛利の水軍が大坂湾から兵糧を運び込んだ。1576年の木津川口の戦いで、毛利の水軍は焙烙火矢で織田の船を焼き払った。信長は鉄板で覆った大船を造らせ、1578年に再び木津川口で毛利の水軍を破って、海の道を断った。1579年には味方の荒木村重も滅び、本願寺はしだいに孤立していった。
1580年、正親町天皇の仲立ちで和議が結ばれた。本願寺は大坂を明け渡し、信長は門徒の罪を問わない、という条件だった。天皇の名を借りることで、信長は力攻めをせずに本願寺を退かせ、本願寺は降伏ではない形で寺を出ることができた。4月、顕如は紀伊の鷺森へ移った。ところが長男の教如は、信長は約束を守らないと言って石山に残り、門徒に籠城を呼びかけた。父と子が別々の手紙を門徒に送る事態になり、顕如は教如を義絶した。教如も8月には石山を出て、その直後、石山の伽藍は火に包まれて焼け落ちた。
1582年、信長が本能寺で倒れた(本能寺の変)。顕如は教如を許し、天下人となった豊臣秀吉と良い関係を築いた。本願寺は鷺森から和泉の貝塚、大坂の天満へと移り、1591年、秀吉から京の六条堀川に広い土地を与えられた。今の西本願寺の地である。翌1592年、顕如は亡くなった。満49歳だった。

跡は長男の教如が継いだ。ところが翌年、顕如の妻の如春尼が、顕如は三男の准如に譲るという書状を残していたと秀吉に訴え、秀吉は教如を退けて准如に本願寺を継がせた。石山に残った教如と、父についた家臣たちとの溝が、ここで表に出たのである。秀吉の死後、徳川家康は1602年、隠居していた教如に京の烏丸七条の土地を与えた。こうして本願寺は西の本願寺(准如の流れ)と東本願寺(教如の流れ)に分かれ、今もそのままである。家康が巨大な教団の力を割くために分けた、と言われることが多いが、分裂の根は石山の退去をめぐる親子の対立にあった。
顕如は、宗教の指導者として10年にわたって天下人と戦った人だった。石山合戦のあと、本願寺が武力で権力と争うことは二度となかった。仏教の教団は江戸幕府の寺の制度に組み込まれ、人々の暮らしを支える側に回っていく。宗教が武器を持って国と並び立った時代は、顕如とともに終わった。