できごと

アジャンター石窟の壁画

Ajanta Caves
BC200年 – AD650年
期間を持つできごと重要度 4
アジャンター石窟の壁画に関わる図版:Ajanta (63)
Ajanta (63) Wikimedia Commons No machine-readable author provided. Soman assumed (based on copyright claims). · CC BY 2.5

概要

岩を掘り抜いた寺院に仏教絵画が残る。この様式が中央アジアを経て中国・日本へ伝わる。

場所

アジャンター
20.55°N 75.70°E · インド・マハーラーシュトラ州

本文

インド西部、デカン高原の北の縁で、ワゴーラ川が馬蹄の形に大きく曲がって深い谷を刻んでいる。その外側の崖の中腹に、岩を掘り抜いた洞窟が30ほど、弓なりに並んでいる。これがアジャンターの石窟である。建てたのではなく、山の岩肌から不要な部分を削り取って、柱も天井も仏塔も彫り出した。

仏教の僧たちは、もともと雨季の3か月を一か所にとどまって過ごす習わしを持っていた。その居場所として、人里から少し離れた岩山を掘った窟が、インド西部の各地で作られるようになる。アジャンターの窟は二種類に分かれる。礼拝のための窟(チャイティヤ)は奥に仏塔を置いた細長い堂で、天井は木造の建物をまねたアーチの形に彫られている。もう一つは僧たちが寝起きするための窟(ヴィハーラ)で、中央の広間の周りに小さな僧房が並ぶ。

アジャンター石窟群の玄武岩の崖と洞窟群
アジャンター石窟群の玄武岩の崖と洞窟群Wikimedia Commons Vyacheslav Argenberg · CC BY 4.0

掘られた時期は大きく二つに分かれる。最初はBC2世紀からBC1世紀ごろで、デカンを治めていたサータヴァーハナ朝の時代にあたる。この時期の窟には仏の像がなく、仏塔や足跡など、しるしによって仏を表していた。その後、数百年のあいだ新しい窟は掘られなかった。二度目は5世紀の後半で、この地域を治めたヴァーカータカ朝のハリシェーナ王の時代に、王の大臣や家臣たちが競うように新しい窟を寄進した。北インドではグプタ朝の黄金時代の文化が花開いていた時期で、二度目の窟にはそれまでなかった仏の像が大きく彫られた。窟の多くは5世紀末のわずか20〜30年ほどの間に集中して掘られ、王朝が衰えるとともに、作りかけのまま放棄されたものもあるとする研究がある。

アジャンターを特別なものにしているのは、壁と天井を埋める絵である。岩の表面に、泥に岩の粉や植物の繊維を混ぜて塗り、その上に石灰を薄く塗って下地を作り、乾いてから顔料で描いた。描かれているのは主に、仏陀の生涯と、仏陀が前の世で動物や王として生きたときの物語(ジャータカ)である。

アジャンター石窟で描かれた釈迦の前世(マハージャナカ・ジャータカ)。上座部仏教では、釈迦は輪廻転生の中で悟りを得て自力で解脱し涅槃に入ったと解釈する。大乗仏教のように釈迦より上位の仏を想定し、釈迦は法身仏に遣わされた存在であるという解釈や、法身仏の化身であるという解釈はとらない。
アジャンター石窟で描かれた釈迦の前世(マハージャナカ・ジャータカ)。上座部仏教では、釈迦は輪廻転生の中で悟りを得て自力で解脱し涅槃に入ったと解釈する。大乗仏教のように釈迦より上位の仏を想定し、釈迦は法身仏に遣わされた存在であるという解釈や、法身仏の化身であるという解釈はとらない。Wikimedia Commons Meister des Mahâjanaka Jâtaka · Public domain

宗教の絵でありながら、そこにはこの世の暮らしが溢れている。宮殿の王と妃、市場の商人、行列の象、楽師と踊り子、身を飾る女たち、森の猿や鹿。第1窟の入口近くに描かれた蓮華を持つ菩薩は、うつむいた顔に深い静けさをたたえ、インド美術の中で最もよく知られた像の一つになっている。陰影をつけて体の丸みを表し、腕や頬の線で立体を描き出す技法は、同じ時代のほかの地域の絵と比べても際立っている。

この様式は、仏教とともにインドの外へ伝わったとされる。中央アジアのオアシス都市の寺院の壁画、敦煌の石窟の造営の壁画にも、陰影の付け方や人物の姿に似たところが見られる。日本の法隆寺の金堂の壁画(1949年の火災で大きく損なわれた)も、アジャンターの菩薩と並べて語られることが多い。ただ、どの時期にどの経路で伝わったのかを一つずつたどれるわけではなく、似ていることが直接の影響を意味するかについては慎重な見方もある。

アジャンター石窟の柱廊のある仏教僧院
アジャンター石窟の柱廊のある仏教僧院Wikimedia Commons Vyacheslav Argenberg · CC BY 4.0

5世紀の末から窟は使われなくなり、谷は森に呑み込まれた。7世紀に玄奘がこの地方を旅したとき、山の中に岩を掘った寺があると記しており、それがアジャンターを指すと考える研究者もいる。その後1000年以上、石窟は土地の人々を除いて外の世界から忘れられた。

1819年4月、イギリスのマドラス軍の騎兵将校ジョン・スミスが、虎を狩りに来てこの谷に入り、向こう側の崖に窟の入口を見つけた。スミスは第10窟の柱に、自分の名前と日付を刻みつけている。その刻み跡は今も残る。その後、イギリスの画家が20年以上かけて壁画を写し取ったが、写しの多くはロンドンで展示中に火事で焼けてしまった。

アジャンター石窟の壁画(6世紀頃のインドの画家による)
アジャンター石窟の壁画(6世紀頃のインドの画家による)Wikimedia Commons Indian painter, circa 600 · Public domain

森に埋もれていたことが、壁画を雨と日差しと人の手から守っていた。発見の後、訪れる人が増え、当時のニスを塗る保存処理がかえって絵を傷めることもあった。1983年に世界遺産に登録されたいまも、湿気と訪問者の吐く息から絵を守る工夫が続けられている。

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