人物

メナンドロス1世

Menander I
? – BC130年頃
インド・グリーク朝重要度 4

概要

サーガラ(シアールコート)の王。パンジャーブからガンジスの中流まで。硬貨は「救済者王メナンドロス」、ギリシア語とカローシュティー文字。仏教に帰依したとパーリ語の本は言う。ミリンダ。「彼の遺骨を都市が分け合った」とプルタルコス。仏舎利のように。

関わったできごと(1)

ミリンダ王の問いBC150年頃 · 問うた

本文

メナンドロス1世は、紀元前2世紀の中ごろに北西インドを治めたギリシア人の王である。インドの仏典では「ミリンダ」、銘文では「ミナンドラ」と呼ばれる。生年は分からない。仏典『ミリンダ王の問い』は、王がアラサンダ(アレクサンドリア)のカラシという村に生まれたと書く。このアレクサンドリアは、アレクサンドロス3世がヒンドゥークシュの南の麓、いまのカーブルの北に建てた「カウカソスのアレクサンドリア」だとする見方が有力である。

ミリンダ王の問いに関わる図版:Folios of the Bhikkhuni-patimokkha (BL IO Man.Pali 21)
ミリンダ王の問いWikimedia Commons Unknown artist Unknown artist · CC0

アレクサンドロスの遠征のあと、中央アジアのバクトリアにはギリシア人の植民者が残り、紀元前3世紀の中ごろにセレウコス朝から離れて自分たちの王国を作った。紀元前2世紀の初め、その王たちはヒンドゥークシュを越えて南へ、インダス川の流域へ入る。マウリヤ朝が紀元前185年頃に倒れ、北インドにまとまった力が無くなっていた時期である。インドに根を下ろしたギリシア人の王たちを、いまはインド・グリーク朝と呼ぶ。メナンドロスはその最大の王だが、即位の経緯ははっきりしない。先王アポロドトス1世の血筋とも、将軍から王に上ったとも言われる。

都はサーガラ、いまのパキスタンのシアールコートにあたる。領土はガンダーラ、タキシラからパンジャーブ全体に及び、東へはさらに兵を進めた。ギリシアの地理学者ストラボンは、アポロドロスという著述家を引いて、メナンドロスがヒュパニス川(いまのビアース川)を越え、イサモスという川まで進んだらしいと書いている。インド側の予言書の形をとった『ユガ・プラーナ』も、ヤヴァナ(ギリシア人)がサーケータ、パーンチャーラ、マトゥラーを取り、パータリプトラにまで迫ったと記す。ただしそこに王の名は無く、これがメナンドロスの遠征なのか、またパータリプトラを本当に落としたのかは説が分かれる。同じ書は、ギリシア人が内輪の争いのためにとどまらなかったとも述べている。西のバクトリアでは同じころエウクラティデスが王位を奪い、インドのギリシア人の王たちと争っていた。

メナンドロス1世の銀貨。ギリシャ語で「救世主王メナンドロスの」と刻まれている(大英博物館)
メナンドロス1世の銀貨。ギリシャ語で「救世主王メナンドロスの」と刻まれている(大英博物館)Wikimedia Commons No machine-readable author provided. World Imaging assumed (based on copyright claims). · Public domain

王を今に伝えるいちばんの史料は硬貨である。メナンドロスの硬貨はインド・グリークの王たちの中でもっとも数が多く、アフガニスタンからインド北部まで広く出る。表にはギリシア語で「救済者王メナンドロスの」とあり、裏にはカローシュティー文字のプラークリット語で同じ意味の「マハーラージャ・トラータラ・メナンドラ」と刻まれる。二つの言葉で読めるように作った硬貨は、ギリシア人の王が、ギリシア語を読まない多くの民を治めていたことを示している。図柄の多くは雷を投げるアテナで、王の肖像は若い顔から老いた顔まであり、在位が長かったことがうかがえる。車輪の図、法輪とも読める図を描いた銅貨もあり、仏教との関わりの証拠として挙げられるが、それだけで信仰を決めることはできない。

仏教とのつながりを強く語るのは『ミリンダ王の問い』である。王は弁論に長け、どの賢者も言い負かしてきたが、僧ナーガセーナと向き合って問答を重ねる。名を問われたナーガセーナは、ナーガセーナというのは呼び名にすぎないと答える。そして王が乗ってきた車を例に取り、轅も車軸も車輪も、それだけでは車ではなく、部分が寄り集まったものに付けられた名が車なのだと説く。この場面は、無我の教えを説く例としてよく知られる。ギリシア風の問いの立て方と仏教の教理がぶつかり合う問答で、パーリ語で伝わり、漢訳では『那先比丘経』として残る。

メナンドロス1世の肖像のある硬貨
メナンドロス1世の肖像のある硬貨Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

パーリ語の版は、王が最後にナーガセーナに帰依し、国を息子に譲って出家し、阿羅漢になったと結ぶ。しかし漢訳にはこの結びに当たる部分がなく、後から書き足されたと見るのがふつうである。いまのパキスタン北西部のバジャウルからは、ミナンドラ王の治世の年を記した仏舎利の容器が見つかっており、王の時代に仏舎利を祀る信者がいたことは確かめられる。王自身が仏教徒であったかどうかは、確かではない。

王の死については、遠く離れたギリシアの書き手が一つの話を残している。プルタルコスは『政治家への教訓』の中で、バクトリア人の王メナンドロスが公正に治めたこと、陣中で死ぬと諸都市が遺骨を争い、最後は等分してそれぞれが記念の塚を建てることで落ち着いたことを書いた。ブッダが入滅したとき、遺骨が八つに分けられて塔に納められたという仏典の話とよく似ている。プルタルコスがどこからこの話を得たかは分からない。

ミリンダ王(メナンドロス1世)が問いを発する場面
ミリンダ王(メナンドロス1世)が問いを発する場面Wikimedia Commons Horace van Ruith · Public domain

死はおよそ紀元前130年頃とされる。硬貨からは、王妃アガトクレイアが幼い息子ストラトン1世の後見として国を治めたと推定されている。メナンドロスのあと、インド・グリークの王国は分かれ、多くの小さな王が並び立った。北からは遊牧民のサカ人が入り、バクトリアの本国も遊牧民に奪われて(グレコ・バクトリア王国の滅亡)、ギリシア人の王統は紀元後の初めごろまでに消えていった。

それでもメナンドロスの名は、インドの側に残った。ギリシア人の王が仏典の中で問いを発する人として語り継がれ、漢訳を通じて東アジアにまで伝わった例はほかにない。アショーカ王がカンダハールにギリシア語の碑文を残してから百年余り、ギリシア人と仏教との出会いはこの王の時代に深まった。ガンダーラでギリシア風の仏像が作られる(ガンダーラの仏像)のは、さらに二百年ほど後のことである。

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