人物

鳩摩羅什

Kumārajīva
AD344年 – AD413年(享年69・推定)
亀茲重要度 4

概要

インド人の父と亀茲の王女の母。7歳で出家し、涼州に17年抑留され、57歳で長安に迎えられた。300巻を訳した。王に女を与えられて破戒し、「泥の中の蓮を取れ、泥は取るな」と弟子に言った。舌だけが焼けずに残ったと伝わる。

関わったできごと(1)

鳩摩羅什の長安入りAD401年 · 訳経

本文

344年頃、タリム盆地の北の縁にあったオアシスの国、亀茲(いまの中国新疆ウイグル自治区のクチャ)に生まれた。生年には350年とする説もある。父の鳩摩羅炎はインドの名家の出で、宰相の地位を継ぐはずだったのを捨てて出家し、パミールの山々を越えて亀茲にやってきた。亀茲の王は彼を国師として迎え、自分の妹を嫁がせた。その子が鳩摩羅什である。亀茲はシルクロードの交易で栄え、仏教が深く根づいた国だった。

鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』。彼の漢訳は長行(仏典の散文の部分)でも四字句を多用したので、リズミカルで流麗である。写真は江戸時代の読誦用の経本で、経文の右側に「真読」(呉音読み)、左側に「訓読」(漢文訓読)を示す「両点本」である。
鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』。彼の漢訳は長行(仏典の散文の部分)でも四字句を多用したので、リズミカルで流麗である。写真は江戸時代の読誦用の経本で、経文の右側に「真読」(呉音読み)、左側に「訓読」(漢文訓読)を示す「両点本」である。Wikimedia Commons ウィキ太郎(WikiTaro) · Public domain

7歳のとき、母とともに出家した。母も熱心な仏教徒だった。9歳で母に連れられてインド北西部のカシミールへ行き、当時の主流だった部派仏教(説一切有部)の教えを学んだ。12歳で亀茲へ戻る途中、カシュガルで大乗仏教の僧に出会い、すべてのものには固定した実体が無いという「空」の思想を説く『中論』などを学んで、大乗に転じた。亀茲に帰ると、若くして名声は西域一帯に広まり、王は黄金の獅子の座を作って彼に講義させたという。

伝記によれば、母はやがてインドへ去るとき、息子にこう言った。大乗の教えを東の中国に広めることはお前にしかできない。だが、そのためにはお前自身に大きな苦難が降りかかるだろう。それでもよいか。羅什は、教えが広まるのなら、自分の身がどうなろうと悔いはない、と答えた。母と子は、その後二度と会うことはなかった。

鳩摩羅什訳による仏説阿弥陀経
鳩摩羅什訳による仏説阿弥陀経Wikimedia Commons tamakisono · CC BY 2.0

その名声は中国にまで届いていた。当時の中国北部は、遊牧系の諸民族が次々に国を建てた分裂の時代で(五胡十六国)、その中で前秦の苻堅が華北を統一していた(前秦の華北統一)。仏教を重んじた苻堅は、羅什を迎えたいと考え、382年、将軍の呂光に西域を攻めさせた。384年、呂光は亀茲を攻め落とし、羅什を捕らえた。

呂光は仏教に関心がなく、まだ若い羅什をからかった。暴れる牛や馬に乗せて落ちるのを見て笑い、亀茲の王女と無理やり結婚させようとした。羅什が拒むと、酒を飲ませて王女と密室に閉じ込め、戒を破らせたと伝記は記す。その間に、苻堅は東晋との淝水の戦いに大敗し(淝水の戦い)、やがて殺されて前秦は崩れた。帰る国を失った呂光は、河西回廊の涼州(いまの甘粛省武威)で自ら国を建てた。羅什はその地にとどめ置かれ、17年を過ごした。呂光は羅什の知恵を政治にはほとんど用いなかったが、この長い歳月の間に、羅什は中国の言葉と文化を深く身につけた。それがのちの仕事を支えることになる。

漢代長安の略図、清代に描かれたもの
漢代長安の略図、清代に描かれたものWikimedia Commons Bi Yuan (1730–1797) · Public domain

401年、長安を都とする後秦の王、姚興が涼州を攻め、ついに羅什を長安に迎えた(鳩摩羅什の長安入り)。57歳前後だった。姚興は羅什を国師として厚く遇し、宮廷の庭園である逍遥園に訳経の場を設けた。各地から多くの僧が集まり、その数は数千にのぼったと伝えられる。羅什は経典を手に取って中国語で口述し、弟子たちがそれを書き取り、意味を議論して文を整えた。姚興自身も、ときに古い訳本を手にして訳の場に加わった。

それまでにも仏典の漢訳はあったが、中国古来の老荘思想の言葉を借りて訳したものが多く、意味がずれたり、読みにくかったりした。羅什の訳は、原典の意味を正確に伝えながら、中国の人々にとって読みやすく、響きの美しい文章だった。弟子の僧叡が、ある訳を見せたとき、古い訳で「天は人を見、人は天を見る」とあった一節を、羅什は、原意は同じだが言葉が素朴すぎるとして、天と人とが行き交い、互いに見ることができる、という意味の文に改めたという話が伝わる。

金剛経の一部、張即之による写本(鳩摩羅什訳に基づく)
金剛経の一部、張即之による写本(鳩摩羅什訳に基づく)Wikimedia Commons Zhang Jizhi 張即之 · Public domain

13年ほどの間に羅什が訳した経典は、35部300巻近くにのぼる。『妙法蓮華経』(法華経)、『維摩経』、『阿弥陀経』、『金剛般若経』、『大品般若経』、龍樹の『中論』や『大智度論』などである。法華経は、のちに中国と日本で天台宗の根本の経典となり、日本の最澄もこの訳によって教えを立てた。聖徳太子が講じたとされる法華経と維摩経も、羅什の訳である。いまの日本で寺の法要で読まれる経典の多くは、羅什の訳文そのままである。同じ頃、中国の僧法顕は、まだ足りない戒律の経典を求めて長安からインドへ旅立っていた(法顕の求法の旅)。

羅什の生涯には、もう一度、戒律をめぐる試練があった。姚興は、羅什のような優れた人の血筋が絶えてはならないと言って、10人の女性を彼に与え、寺を出て別の屋敷に住まわせた。羅什は講義のたびに、たとえば汚れた泥の中から蓮の花が咲くようなものだ、蓮の花だけを取り、泥は取るな、と弟子たちに語ったと伝えられる。自分の行いは見習わず、自分が訳した教えだけを受け取ってほしい、という意味である。

413年、羅什は長安で亡くなった。70歳ほどだった。死を前にして、羅什は弟子たちにこう言ったという。私が訳した経典に誤りが無ければ、私の体を焼いても、舌だけは焼け残るだろう。遺体は荼毘に付され、舌だけが焼けずに残った、と伝記は記す。西安の南の草堂寺には、羅什を祀る舎利塔が今も立っている。

羅什ののち、7世紀の玄奘がインドから膨大な経典を持ち帰り、より原典に忠実な訳を作った。羅什の訳は旧訳、玄奘の訳は新訳と呼ばれる。だが、法華経や阿弥陀経のように、玄奘の時代を過ぎても羅什の訳が読まれ続けた経典は多い。中国と朝鮮と日本の仏教は、長く羅什の言葉で語られてきた。

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