できごと

キルギスのウイグル打倒

Kyrgyz destroy the Uyghur Khaganate
AD840年
重要度 4
カリフ国(正統・ウマイヤ・アッバース)古シベリアの狩猟採集民北極圏の海獣狩猟民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民唐ツングース系の人びとウイグル可汗国吐蕃ヒンドゥーの諸国渤海ラージプートの諸氏族と小国プラティーハーラ朝バシキールパーラ朝南詔南詔と大理日本アイヌ新羅チャーハマーナ朝ピュー(驃)の諸都市VallabhiAD840年オルホン渓谷(位置は特定されていない)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD840年の版図を描いています(22勢力)。

概要

内紛と飢饉と雪で弱ったウイグル可汗国を、エニセイのキルギスが襲い、可汗を殺し、オルドバリクを焼いた。100年の可汗国が消えた。ウイグルは西へ逃げて、天山と河西に落ち着き、農耕と仏教とマニ教の民になった。唐は北の敵を失い、843年にはマニ教を禁じた。

場所

オルホン渓谷位置は特定されていない(誤差 ±30km)
47.56°N 102.83°E · モンゴル・ウブルハンガイ県(突厥碑文の地)

本文

840年、モンゴル高原のオルホン川のほとりで、百年近く続いた遊牧の帝国が一夜にして崩れた。北のエニセイ川の上流から攻め込んだキルギスの騎兵が、ウイグルの都オルドバリクを焼き、可汗を殺したのである。

ウイグル可汗国は、744年、それまで高原を治めていた突厥の残りを倒して生まれた。755年に唐で安史の乱が起きると、ウイグルは援軍を送って長安と洛陽を取り戻すのを助け、その見返りに唐から莫大な絹を受け取るようになった。ウイグルの馬を唐が高い値で買い、代価を絹で払う取り引きは、唐の財政を圧迫するほどの量に達した。ウイグルの宮廷には、シルクロードの商いを担うソグド人の商人が入り込み、彼らが伝えたマニ教を、8世紀の後半には可汗自らが受け入れた。遊牧の国でありながら、オルホン河畔のオルドバリクには城壁と宮殿と寺院が建ち、城郭都市として栄えた。

ウイグル可汗国に関わる図版:Conversion of Bögü Qaghan (759-780 CE) to Manicheism in 762 (detailed of Bögü Qaghan in a suit of armour, kneeling to a
ウイグル可汗国Wikimedia Commons 8th century Manichean painter · Public domain

9世紀に入ると、帝国は内側から弱っていった。可汗の位をめぐる争いが続き、宰相や将軍が可汗を殺す事件が重なった。北西のキルギスとは、820年代から20年にわたって戦争が続いていた。中国の史書は、キルギスの人びとを、背が高く、赤い髪に白い顔、緑の瞳を持つと記している。そして839年、疫病が広がり、大雪で羊や馬が大量に死んだ。草原の国にとって、家畜の死はそのまま国の力の喪失だった。

840年、ウイグルの将軍の一人が、内紛に敗れた恨みからキルギスを引き入れた。史書はキルギスの軍を10万騎と伝える。キルギスは都を落として焼き払い、可汗を殺した。ウイグルの人びとは、いくつもの群れに分かれて四方へ散った。

9世紀後半、回鶻可汗国崩壊後の周辺国。
9世紀後半、回鶻可汗国崩壊後の周辺国。Wikimedia Commons トムル · CC0

南へ逃れた一団は、新しい可汗を立てて唐の北の国境に現れ、保護と食糧を求めた。唐の宰相李徳裕は、初めは物資を与えて様子を見たが、彼らが国境の内側を荒らし始めると攻撃に転じ、843年、唐の軍が可汗の本営を急襲して大きな打撃を与えた。南へ逃れたウイグルは、やがて消えていった。

西へ向かった人びとは、天山山脈の東の端に落ち着いた。トルファンの高昌と、北庭(ビシュバリク)を中心とする国は天山ウイグル王国(西ウイグル王国)と呼ばれ、甘粛の河西回廊には甘州ウイグルの国ができた。彼らはオアシスで畑を耕し、交易を営む民となり、マニ教に加えて仏教を厚く信じるようになった。トルファンの近くのベゼクリク千仏洞には、ウイグルの王族や貴人を描いた壁画が残る。ソグド文字をもとにしたウイグル文字で、多くの仏典が訳された。

ベゼクリク壁画のウイグル王女たち
ベゼクリク壁画のウイグル王女たちWikimedia Commons Gryffindor · Public domain

このウイグル文字は、思いがけなく長い命を持つことになる。13世紀、モンゴル帝国はウイグル人の書記を用い、その文字を借りてモンゴル語を書き表した。さらに17世紀、満洲人はモンゴル文字をもとに満洲文字を作った。清の公文書に書かれた満洲文字の祖先は、オルホンから逃れたウイグルの人びとが使っていた文字だった。

勝ったキルギスは、高原全体を束ねる国を築くことはなく、やがて勢力の中心を北のエニセイに戻したとされる。モンゴル高原には、それから一世紀近く、全体を束ねる強い主が現れなかった。次に草原をまとめたのは、東の契丹である(契丹(遼)の建国)。

唐の側でも、この事件は波紋を広げた。ウイグルの後ろ盾を失ったマニ教は、843年に唐で禁じられ、寺は閉じられ、僧が殺された。2年後には仏教をはじめ外来の宗教全体に及ぶ会昌の廃仏が起き、その場に居合わせた日本の僧円仁が記録を残している(円仁の入唐求法)。北の脅威が消えた唐だったが、その後は国内の反乱に揺れ、870年代には黄巣の乱が国を揺るがすことになる。

会昌の廃仏に関わる図版:Tang Wuzong
会昌の廃仏Wikimedia Commons Wang Qi · Public domain

オルドバリクの跡は、いまもモンゴルの草原に土の城壁を残し、一帯は「オルホン渓谷の文化的景観」として世界遺産に登録されている。いまの新疆のウイグル族は、天山に移り住んだ人びとの名を受け継いでいるが、その後の千年のあいだに多くの民族が混じり合って形づくられた人びとである。

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