できごと

栄西と臨済宗

Eisai brings Rinzai Zen to Japan
AD1191年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民クマン=キプチャク連合モンゴル系の人びとフィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民金(女真)チベットカラハン朝宋西夏スコータイ朝クメール帝国ヒンドゥーと仏教の小国群南詔パーラ朝南詔と大理パガン朝日本プラティーハーラ朝高麗アイヌSenas大越大越ピュー(驃)の諸都市モンの諸国チャンパAD1191年博多
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概要

二度宋に渡った僧が、臨済の禅と茶の種を持ち帰った。博多に最初の禅寺を建て、鎌倉に招かれた。『喫茶養生記』を書いて、二日酔いの将軍に茶を勧めた。

場所

博多
33.59°N 130.40°E · 日本・福岡県

関わった人(1)

栄西AD1141年–AD1215年 · 開祖

本文

栄西(ようさい、とも読む)は1141年、備中国(いまの岡山県)の吉備津神社に仕える神官の家に生まれた。幼いころから仏典に親しみ、14歳で比叡山に登って出家し、天台宗の教えと密教を学んだ。平安時代の終わりの比叡山は、広大な荘園と僧兵を抱えて朝廷にも強訴を繰り返す一大勢力だったが、栄西の目には、戒律がゆるみ、本来の仏教が失われているように見えた。仏教のふるさとである大陸に渡って、正しい教えを学び直したい、と彼は考えた。

1168年、28歳の栄西は博多から宋に渡った。現地では、のちに東大寺の再建を率いる重源と出会い、ともに天台山などの霊場を巡った。滞在は半年ほどで、天台の書物を多く持ち帰ったが、このとき栄西は、宋の仏教の主流がすでに禅に移っていることを知った。

栄西の肖像、建仁寺蔵
栄西の肖像、建仁寺蔵Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1187年、47歳で二度目に宋へ渡った。目的は、さらにその先の釈迦の国、インドへ行くことだった。しかし宋の役所は、北方の異民族の国々が道をふさいでいることを理由に許可を出さなかった。やむなく栄西は天台山の万年寺に入り、臨済宗の禅僧、虚庵懐敞について修行した。師が寺を移るとそれに従い、4年あまり座禅と問答に励み、臨済の禅の法を正式に受け継いだ。

1191年、栄西は九州に帰り着いた。そして博多をはじめ九州の各地で禅を広めはじめ、1195年には、源頼朝から土地を与えられて、博多に聖福寺を建てた。山門に掲げられた額には「扶桑最初禅窟」、日本で最初の禅の道場とある。

茶碑、建仁寺、京都市東山区
茶碑、建仁寺、京都市東山区Wikimedia Commons mariemon · CC BY 3.0

新しい教えは反発を招いた。比叡山の僧たちは、禅は仏教を乱す新しい教えだとして朝廷に訴え、1194年、朝廷は禅を広めることを禁じた。栄西は1198年、『興禅護国論』を書いて反論した。禅は天台宗の開祖最澄も学んだ由緒ある教えであり、戒律を守り、心を磨く禅を盛んにすることは、国を護ることにつながる、と説いた。自分は天台宗を捨てたのではない、という立場も崩さなかった。

京都で道を開くのが難しいとみた栄西は、鎌倉に向かった。1199年、源頼朝が死んだ年である。新しく武士の政権を開いた鎌倉の人びとは、朝廷や古い大寺院とつながりの薄い新しい仏教を歓迎した(鎌倉幕府の成立)。頼朝の妻の北条政子は栄西を招き、1200年に寿福寺を建てた。1202年には、2代将軍の源頼家が土地を寄進して、京都に建仁寺が開かれた。建仁寺は、禅だけでなく天台と真言も学ぶ寺として始まった。比叡山との衝突を避けるためだったと言われる。栄西はまた、重源の後を継いで東大寺の再建の責任者も務め、朝廷からも重んじられるようになった。

『茶祖栄西禅師之像』(静岡県掛川市)
『茶祖栄西禅師之像』(静岡県掛川市)Wikimedia Commons 観光・CP課 · CC BY 4.0

栄西は、宋から茶の種を持ち帰ったとも伝えられる。九州の背振山に植え、京都の栂尾に住む高僧の明恵にも種を贈ったという。栂尾の茶はのちに「本茶」と呼ばれて尊ばれ、そこから宇治へ茶の栽培が広がったとされる。茶そのものは、それより400年近く前、平安時代の初めに唐から伝わり、宮中で飲まれた記録がある。しかし、その習慣はいったん廃れていた。栄西が伝えたのは、宋で流行していた、茶の葉を臼でひいた粉を湯に入れて泡立てて飲む方法で、のちの抹茶につながる。

1214年、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』に、こんな記事がある。3代将軍の源実朝が、前の晩の酒宴のせいか具合が悪く苦しんでいた。祈祷のために呼ばれた栄西は、加持祈祷とともに一服の茶を勧め、あわせて茶の効能を記した一巻の書を献じた。実朝は茶を飲んで気分がよくなったという。その書が『喫茶養生記』である。冒頭は「茶は養生の仙薬なり、延齢の妙術なり」と始まる。茶が心臓を養い、体を整える薬であることを、医学の理屈とともに説いた本で、桑の効能についても書いている。茶は、まず薬として日本の武士の世界に入っていったのである。

栄西は翌1215年、数えで75歳で亡くなった。京都の建仁寺で亡くなったとも、鎌倉で亡くなったとも伝えられる。建仁寺には、のちに曹洞宗を開く道元が若いころに学び、栄西の弟子の明全とともに宋へ渡っている(道元の永平寺)。臨済宗は、その後に宋や元から来た禅僧たちの力も加わって、鎌倉と京都の幕府に保護され、五山と呼ばれる大寺院の制度の中で、漢詩文や水墨画、庭園など室町の文化を育てる中心になる(銀閣と東山文化)。茶もまた禅寺の作法とともに広がり、やがて千利休の茶の湯へと受け継がれていく。栄西は、法然や親鸞と同じ時代に、古い仏教の内側から新しい道を開こうとした人だった(物語「鎌倉文化 — 武士と民衆の仏教」)。

動画(1)

【禅の心②】日本に伝来した禅の歴史とは?中田敦彦のYouTube大学 - NAKATA UNIVERSITY禅を扱う回の第2回。日本への伝来の歴史

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