達磨の渡来(伝承)
概要
南インドの王子が海から広州に来て、梁の武帝に「あなたの功徳は無い」と言い、葦の葉で長江を渡り、嵩山の洞窟で9年壁に向かった。慧可が腕を切って弟子になった。禅の初祖。『洛陽伽藍記』に西域の僧「菩提達磨」が一行だけ出る。他は全部伝説。
場所
34.51°N 112.94°E · 中国・河南省登封
関わった人(1)
菩提達磨初祖本文
禅宗の初祖とされる菩提達磨について、同じ時代に書かれた記録は、ほんの数行しかない。547年、北魏の都の洛陽(孝文帝の洛陽遷都と漢化)の寺々を回想した楊衒之の『洛陽伽藍記』に、西域から来たペルシアの僧として菩提達摩の名が出てくる。彼は洛陽の永寧寺の、金の飾りが日に輝く九重の塔を見て、自分は150歳になり、多くの国を回ってきたが、これほどの寺は見たことがない、と言い、南無と唱えて何日も合掌し続けたという。確かな同時代の記録は、これだけである。
約100年後の645年ごろ、唐の僧の道宣は『続高僧伝』に、もう少し詳しい伝記を書いた。達摩は南インドのバラモンの出で、海路で南朝の宋の地に着き、のちに北魏へ移って禅を教えた。壁のように動かない心で真理を見る「壁観」を説き、弟子に慧可らがいた。この伝記では、慧可は盗賊に襲われて腕を失ったことになっている。この時点で、達摩はペルシアの老僧から南インドの禅師に変わっている。

達摩の話が大きく膨らむのは、唐の中ごろから、禅宗がさまざまな流派に分かれて、自分たちの教えの正しい系譜を競うようになってからである。釈迦から代々、心から心へ伝えられた悟りが、28代目の達摩によって中国へもたらされ、慧可、僧璨、道信、弘忍を経て、6代目の慧能に伝わった。この系譜を確かなものにするために、初祖の物語が書き足されていった。11世紀の初めにまとめられた『景徳伝灯録』で、私たちが知る達摩の姿はほぼ出来上がる。
その中で最も有名なのが、梁の武帝との問答である。仏教を篤く信じ、自ら寺に身を捨てたことでも知られる武帝(梁の武帝の捨身)は、自分は寺を建て、僧を育て、経を写してきた、どんな功徳があるか、と尋ねた。達摩は、功徳など無い、と答えた。仏法の最も大事な教えは何かと問われると、からりとして聖なるものなど無い、と答え、では私の前にいるお前は誰だと問われると、知らない、と答えた。話の合わない武帝のもとを去った達摩は、一本の葦に乗って長江を渡り、北へ向かったという。

達摩は嵩山の少林寺に入り、洞窟で9年の間、壁に向かって座り続けた。面壁九年である。ある雪の夜、教えを求める慧可が洞窟の外に立ち続けたが、達摩は振り向かなかった。慧可は自分の左腕を切り落として差し出し、決意を示した。慧可が、私の心は不安でなりません、安らかにしてください、と頼むと、達摩は、その心を持ってきなさい、安らかにしてやろう、と言った。慧可がしばらくして、心を探しましたが見つかりません、と答えると、達摩は、これでお前の心を安らかにした、と言った。盗賊に腕を切られたという古い伝えは、ここでは自ら腕を断つ求道の話に変わっている。
ほかにも話は多い。達摩はねたむ者に6度毒を盛られ、ついに死んで葬られた。ところが3年後、西域から帰る北魏の使者の宋雲が、パミールの山中で片方の履物を手にして西へ歩く達摩に会った。帰って墓を開けると、棺の中には履物が片方残っているだけだった、という。

禅宗は、言葉や文字に頼らず、心から心へ悟りを伝えると説く。その宗派が、初祖について誰よりも多くの言葉を作り出したことになる。だが、伝説が事実でないからといって、意味がないわけではない。達摩と武帝の問答は、善い行いを積み上げれば救われるという考えを打ち破る禅の立場を、短い言葉で鮮やかに示している。これらの話は、のちの禅僧たちが修行の中で考え抜く「公案」となった。
禅は鎌倉時代に栄西と臨済宗と道元の永平寺を通じて日本に根を下ろし、達摩の姿も日本人の暮らしに入り込んだ。手足の無い赤い張り子のだるまは、面壁九年で手足が腐ってしまったという俗説に結びつけられている。願いをかけて片目を入れ、かなったらもう片方を入れる習わしは、選挙の事務所でもおなじみである。中国では、少林寺の拳法は達摩が教えたものだと言われるようになったが、その根拠とされた『易筋経』は17世紀ごろの作とする見方が強い。

結局、本当の達摩について分かることは、ごくわずかである。150歳を名乗るペルシアの僧が、洛陽の金の塔の前で手を合わせていた。その一行の記録の上に、千年かけて積み上げられた物語が、今日の達磨大師の姿である。