元暁
概要
押梁の人。髑髏の水。還俗。瑤石宮の王女と息子薛聡。「無碍」の歌を瓢箪で。80余りの著作。『金剛三昧経論』は中国で『論』の名を許された。日本の華厳と浄土に影響した。「和諍」、争いを和する。韓国で最も大きな僧。
所属
新羅関わったできごと(1)
元暁の悟りAD661年 · 悟った本文
元暁は617年、新羅の押梁郡(今の韓国の慶山)に生まれた。俗姓は薛氏。母が出産の時を迎えたとき、道ばたの栗の木の下で産気づき、そのまま産んだという話が『三国遺事』に伝わる。元暁についての話の多くは、この13世紀の『三国遺事』と、中国の『宋高僧伝』によるもので、史実と伝説が入り混じっている。
若くして出家した元暁は、各地の師について学んだ。当時の新羅は、新羅の骨品制と呼ばれる厳しい身分制のもとで王族と貴族が仏教を保護し、朝鮮半島の統一を目指して高句麗・百済と争っていた。仏教の最新の学問は唐にあった。とくに、インドから帰った玄奘がもたらした新しい経典と唯識の教えは、東アジアの僧たちの憧れだった。
650年、元暁は年下の友人義湘とともに唐へ留学しようとした。陸路で遼東へ向かったが、高句麗の国境で間者と疑われて捕らえられ、引き返した。661年、二人は今度は海路をとろうと、港へ向かった。その途中のことである。日が暮れて雨に降られ、二人は土の穴に入って夜を明かした。翌朝見ると、そこは古い墓だった。次の夜も雨で動けず、同じ場所に泊まると、今度は鬼が出るような恐ろしさで眠れなかった。昨夜は穴と思って安らかに眠り、今夜は墓と知って恐れる。元暁はそこで、心が生じればさまざまなものが生じ、心が滅すれば穴も墓も同じだ、と悟り、すべては心が作るのだから、外に法を求める必要はないとして唐行きをやめた、と『宋高僧伝』は伝える。夜中に喉が渇いて飲んだ甘い水が、朝見ると髑髏にたまった水だった、という有名な形の話は、さらに後の時代に脚色されたものである。義湘は一人で唐へ渡り、華厳を学んで帰ることになる。
その後の元暁は、型破りな道を歩んだ。武烈王の娘で夫を亡くした瑤石宮の公主と結ばれ、息子の薛聡が生まれた。戒を破ったとして自ら僧籍を離れ、「小姓居士」と名乗った。薛聡は後に新羅を代表する儒学者となり、漢字で朝鮮語を書き表す吏読を整えたと伝えられる。
還俗した元暁は、ひょうたんを叩き、歌い踊りながら村々を巡った。歌は『華厳経』の「一切の無碍の人は、一道より生死を出づ」という句から取ったもので、彼はこのひょうたんを「無碍」と名づけたという。何ものにもとらわれない者は、ただ一つの道で生死を越える。こうして、それまで都の貴族の宗教だった仏教を、山村の貧しい人々までが知り、誰もが仏の名を唱えるようになった、と『三国遺事』は書いている。
一方で、元暁は東アジアでも屈指の多作な学僧だった。著作は80部以上、200巻ほどにのぼったとされ、そのうち20余りが現存する。代表作の『大乗起信論疏』は「海東疏」と呼ばれ、唐の華厳宗の大成者法蔵が自らの注釈で大いに参照した。新羅の僧の書が中国の教学に影響を与えた、数少ない例である。『金剛三昧経論』には、王妃の病を治すためにこの経を講じることになった元暁が、牛車に乗り、二本の角の間に硯を置いて注釈を書き上げた、という逸話が伝わる。書き上げた注釈は盗まれたが、元暁は三日で書き直したという。経の注釈は通常「疏」と呼ばれるが、この書は菩薩の著作にのみ許される「論」の名で呼ばれた。
元暁の思想を一言で表すのが「和諍」である。和諍とは、争いを和らげて一つにすることをいう。当時の仏教は、空を説く派と有を説く派、仏性を誰もが持つか否かなど、宗派ごとの論争に分かれていた。元暁は『十門和諍論』で、それぞれの説は一つの真理を別の面から見たものにすぎない、として、争いを和することを説いた。唐の玄奘の論理学を批判した『判比量論』も書いている。この書は中国でも朝鮮でも失われたが、日本に断簡が伝わり、奈良時代の日本の僧たちが元暁を熱心に読んでいたことを物語っている。浄土教の書も残し、『無量寿経宗要』などは、のちに日本の法然らにも読まれた。
686年、元暁は穴寺で死んだ。70歳。薛聡はその遺骨を砕いて土に混ぜ、父の像を作って芬皇寺に安置した。薛聡が像を拝むと、像が顔を振り向けた、と『三国遺事』は伝え、その頃も像は横を向いたままだったと書いている。
1101年、高麗の王は元暁に「和諍国師」の号を贈った。日本では鎌倉時代の明恵が元暁と義湘を深く敬い、二人の生涯を描いた絵巻を作らせた。京都の高山寺に伝わる国宝『華厳宗祖師絵伝』である。いま韓国では、元暁は最もよく知られた僧の一人であり、ソウルの漢江にかかる橋や大通りにもその名がついている。
元暁が生きた70年は、新羅が小国から半島の主になっていく時代と重なっている。660年に唐と結んで百済を滅ぼし、668年に高句麗を滅ぼし、さらに唐の勢力を追い出して、676年に新羅の朝鮮半島統一を成し遂げた。その間、文武王の時代を通じて戦が絶えなかった。元暁が説いた「和諍」と、身分を問わず誰もが仏の名を唱えれば救われるという教えは、長い戦乱で家族を失い、身分の壁に阻まれた人々にこそ響いたとも考えられている。