できごと

高句麗への仏教伝来

Buddhism reaches Goguryeo
AD372年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民北極圏の海獣狩猟民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民晋グプタ朝グプタ朝サータヴァーハナ朝漢趙(前趙)カリンガ高句麗アイヌ日本チャンパ新羅AD372年国内城
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD372年の版図を描いています(14勢力)。

概要

前秦の苻堅が僧の順道と仏像と経典を送った。半島に仏教が公式に入った最初で、12年後に百済にも東晋から入る。日本に渡るのはそこから150年後になる。

場所

国内城
41.13°N 126.19°E · 中国・吉林省集安市(高句麗の都)

本文

4世紀の高句麗は、苦難の中にあった。高句麗(高句麗)は、いまの中国東北部の鴨緑江の中流、国内城(いまの吉林省集安)を都とする国で、西では遼東をめぐって中国北部の諸国と、南では朝鮮半島の百済(百済)と争っていた。342年には、西の前燕の軍に都を攻め落とされ、王の父の墓が暴かれて遺骸が持ち去られ、王の母が人質として連れて行かれた。371年には、南から攻め上ってきた百済の近肖古王の軍と平壌で戦い、高句麗の故国原王が流れ矢に当たって亡くなった。

その後を継いだのが小獣林王だった。同じころ、中国の北では大きな変化が起きていた。チベット系の氐の人々が建てた前秦の王苻堅が、370年に前燕を滅ぼし、華北の統一へと突き進んでいた(前秦の華北統一)。高句麗を苦しめてきた前燕が消え、その東の隣に、新しい大国が現れたのである。苻堅は自ら仏教を厚く信じ、名高い僧たちを都の長安に集めていた。

佛教を護法した高麗朝時代(918年-1392年)に製作された高麗八万大蔵経の版木
佛教を護法した高麗朝時代(918年-1392年)に製作された高麗八万大蔵経の版木Wikimedia Commons Lauren Heckler (the Flickr ID is malpuella) at Flicker · CC BY 2.0

372年、苻堅は高句麗に使者を送り、順道という僧に仏像と経典を持たせて贈った。小獣林王は使者を送って礼を述べ、土地の産物を返した。12世紀に高麗でまとめられた歴史書『三国史記』は、これを高句麗に仏教が伝わった始まりとして記している。朝鮮半島の国が、国として公式に仏教を受け入れた最初の記録である。2年後の374年には、阿道という僧が来た。375年、王は肖門寺を建てて順道を住まわせ、伊弗蘭寺を建てて阿道を住まわせた。記録に残る、朝鮮半島で最初の寺である。

小獣林王が取り入れたのは、仏教だけではなかった。372年には太学を建てて貴族の子弟に儒教の学問を教えさせ、373年には律令を定めて国の決まりを整えた。わずか数年のうちに、宗教と学問と法を、中国の先進的な制度にならって一度に整えたのである。度重なる敗戦の中で、王の権威を高め、国をまとめ直す必要があった。仏教は、王を中心に国が一つになるための新しい信仰として迎えられた。仏の教えを広める王は、仏の加護を受ける王でもあった。

高麗朝時代(918年-1392年)の968年に開山した普賢寺の境内に存在する八角十三層石塔
高麗朝時代(918年-1392年)の968年に開山した普賢寺の境内に存在する八角十三層石塔Wikimedia Commons David Stanley from Nanaimo, Canada · CC BY 2.0

仏教は、その後の高句麗で根を下ろしていく。小獣林王の甥にあたる好太王は、即位した翌年の392年、平壌に九つの寺を建てたと伝えられる。好太王の時代、高句麗は大きく領土を広げ、その業績は、息子が建てた巨大な石碑に刻まれた(好太王碑)。427年には都が平壌に移る。高句麗の古墳の壁画には、蓮の花や、仏を拝む人々の姿が描かれている。

仏教は、高句麗から少し遅れて、半島のほかの国々にも伝わった。百済には384年、中国の南の東晋から、インドの出身ともいわれる僧マーラーナンダが海を渡って来た。王はこれを迎え、翌年、都の漢山に寺を建てて10人の僧を置いた。新羅(新羅)には5世紀に高句麗から僧が入ったとされるが、貴族たちの反発が強く、王が仏教を公に認めたのは、527年に異次頓という臣下が殉教したあとのことと伝えられる。三つの国が仏教を受け入れるまでに、150年あまりの開きがあった。

そして6世紀の半ば、百済の聖王から倭の大王のもとに、仏像と経典が贈られた(仏教の日本伝来)。その年は538年とも552年ともいわれる。仏教を受け入れるかどうかをめぐって、倭の豪族たちのあいだでも争いが起きた(蘇我氏と物部氏の戦い)。高句麗からも、のちに多くの僧が海を渡った。595年に来た慧慈は聖徳太子の仏教の師となり、610年に来た曇徴は、絵の具と紙と墨の作り方を伝えたと『日本書紀』は記している。

蘇我氏と物部氏の戦いに関わる図版:Shotoku killing Moriya no Omuraji
蘇我氏と物部氏の戦いWikimedia Commons Tsukioka Yoshitoshi · Public domain

仏教は、インドで生まれ、中央アジアを経て中国へ入り(仏教が中国へ)、そこから朝鮮半島を通って日本へと渡った。その東への流れの中で、高句麗への伝来は、中国の外の東アジアの国が、国として仏教を受け入れた最も早い記録の一つにあたる。ただし、記録に残る年より前から、商人や移り住んだ人々を通じて、仏教がすでに半島に知られていた可能性は高い。372年は、仏教が初めて来た年というより、王がそれを国の信仰として迎えた年と考えたほうがよいのかもしれない。

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