人物

夢窓疎石

Musō Soseki
AD1275年 – AD1351年(享年76・推定)
臨済宗重要度 4

概要

伊勢の出。9歳で出家し、初め天台と真言を学び、禅に転じた。各地の山中で修行し、名声が高まると、その都度、逃げるように移った。後醍醐天皇に招かれ、足利尊氏と直義に帰依された。天龍寺、西芳寺、瑞泉寺、恵林寺。庭を作り、詩を書き、『夢中問答集』で禅を平易に説いた。天龍寺船を明へ送って、造営の費用を作った。国師の号を7度、受けた。

関わったできごと(1)

夢窓疎石と禅の庭AD1339年 · 作った

本文

夢窓疎石は1275年、伊勢に生まれた。父は宇多源氏の佐々木氏の流れをくむ一族とされ、母は平氏の出と伝わる。4歳のとき一家は甲斐に移り、まもなく母を亡くした。9歳で甲斐の平塩山の寺に入って出家し、天台と真言の教えを学んだ。18歳で奈良の東大寺の戒壇で正式に受戒し、学問僧として将来を嘱望された。

夢窓疎石の肖像(無等周位筆、14世紀)
夢窓疎石の肖像(無等周位筆、14世紀)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

転機は20歳になる前に来た。教えを受けていた師の一人が死ぬとき、その臨終の姿が苦しみに乱れていた。どれほど経典を読み、教理を究めても、生死の一大事は解けないのではないか。彼は学問の道に疑いを抱き、百日の行に入った。その満願の頃、中国の疎山と石頭という二つの禅寺を訪ね、一人の僧から達磨の像を授けられる夢を見た、と伝わる。目覚めた彼は禅に生きると決め、二つの寺の名から一字ずつ取って疎石と名乗った。夢窓は道号である。

彼は京と鎌倉の禅寺を訪ね歩いた。鎌倉の建長寺や円覚寺で修行し、1299年、元から来日した高僧一山一寧が建長寺に入ると、その門をたたいた。一山の下で詩文の才は認められたが、悟りは認められなかった。次に那須の雲巌寺にいた高峰顕日に参じた。高峰は後嵯峨天皇の皇子とされ、無学祖元の法を継いだ禅僧である。それでも心の決着はつかず、彼は常陸の臼庭の草庵で独り坐禅を続けた。1305年、ある夜、坐禅を終えて床に就こうとし、壁があると思った所に寄りかかったところ壁がなく、そのまま倒れ込んだ。その瞬間、胸のつかえが消え、思わず声を上げて笑った、と彼は自ら記している。31歳だった。翌年、高峰顕日から悟りを証明する印可を受けた。

夢窓疎石の墨跡「別無工夫(別に工夫なし)」
夢窓疎石の墨跡「別無工夫(別に工夫なし)」Wikimedia Commons Public domain

それから20年近く、彼は人里離れた土地を転々とした。美濃の虎渓山(のちの永保寺)、土佐の吸江庵、上総、三浦。名が広まって弟子や権力者からの招きが届くと、そのたびに断り、あるいは黙って次の土地へ移った。名声から逃げ続けたこの時期の行状は、彼の伝記の中でも最もよく語られる部分である。

しかし世の中は彼を放っておかなかった。1325年、後醍醐天皇の強い要請で京の南禅寺の住持となり、1年で辞して去った。翌年からは執権北条高時の招きで鎌倉に下り、円覚寺に入り、鎌倉の瑞泉寺を開いた。1333年に鎌倉幕府が滅ぶと、後醍醐天皇は彼を京に呼び戻し、臨川寺を与え、建武の新政のさなかに「夢窓国師」の号を授けた。

夢窓疎石墨跡 二行書(個人蔵、東京国立博物館寄託)「若一生度此三妄執 即一生成仏何論時分耶」
夢窓疎石墨跡 二行書(個人蔵、東京国立博物館寄託)「若一生度此三妄執 即一生成仏何論時分耶」Wikimedia Commons Daderot · CC0

まもなく後醍醐と足利尊氏は決裂し、朝廷は南北に分かれた。夢窓が特異なのは、敵味方に分かれた双方から深く信頼されたことである。尊氏とその弟直義は彼に帰依し、師として仰いだ。1339年、吉野で後醍醐が死ぬと、夢窓は尊氏と直義に、亡き天皇の霊を慰める寺を建てるよう勧めた。戦った相手の冥福を祈るのは、敵も味方も等しく弔うという仏教の考え(怨親平等)による。こうして嵯峨に建てられたのが天龍寺で、夢窓が開山となった。

建立の費用を工面するため、元へ貿易船を出す案が採られた。鎌倉末期にも建長寺の造営のために船を出した前例があった。この天龍寺船は1342年に博多を発ち、利益を寺の造営に回した。1345年の落慶供養には北朝の光厳上皇が臨むはずだったが、禅宗の隆盛を嫌う延暦寺が強く抗議し、上皇の参列は供養の翌日に改められた。

天龍寺庭園
天龍寺庭園Wikimedia Commons 663highland · CC BY 2.5

夢窓は庭の作り手としても名を残した。天龍寺の曹源池は、背後の嵐山を景色に取り込み、滝を表す石組みを据えた池庭である。同じ1339年に再興した西芳寺では、上下二段の庭を作った。いまは苔に覆われて苔寺と呼ばれるが、上段の石組みは枯山水の源流の一つとされる。瑞泉寺や永保寺にも彼の作と伝わる庭が残る(夢窓疎石と禅の庭)。彼にとって庭作りは道楽ではなく修行の一部だった。直義の問いに仮名交じりの平易な言葉で答えた『夢中問答集』で、彼は、山水そのものに善し悪しは無く、善し悪しは人の心にある、と説いている。庭を自分の物として愛でれば道の妨げになり、庭に向かって心を澄ますなら修行になる、という趣旨である。

1351年9月30日、夢窓は臨川寺で死んだ。77歳(数え年)。生前と死後を通じて、7代の天皇・上皇から国師の号を贈られ、「七朝帝師」と呼ばれた。遺した戒めの中で彼は、弟子を上中下の三等に分けたうえで、仏典の外の詩文に溺れて文筆を生業にする者は頭を剃っただけの俗人で、下等の弟子にも数えられない、と厳しく書いている。門下は一万を超えたと伝えられ、春屋妙葩、義堂周信、絶海中津らが出た。春屋は禅寺を統括する僧録の初代となり、夢窓の門流は室町時代の五山の制の中心を占めた。禅を政治と文化の表舞台に押し上げた人物であり、同時に、生涯にわたって名声から逃げようとした人でもあった。

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