概要
伊勢の出。9歳で出家し、初め天台と真言を学び、禅に転じた。各地の山中で修行し、名声が高まると、その都度、逃げるように移った。後醍醐天皇に招かれ、足利尊氏と直義に帰依された。天龍寺、西芳寺、瑞泉寺、恵林寺。庭を作り、詩を書き、『夢中問答集』で禅を平易に説いた。天龍寺船を明へ送って、造営の費用を作った。国師の号を7度、受けた。
関わったできごと(1)
夢窓疎石と禅の庭AD1339年 · 作った本文
1275年、伊勢。父は宇多源氏佐々木氏の一族、母は北条政村の娘、と伝える。4歳で母を失った。9歳、甲斐の平塩山寺で出家。天台と真言を学んだ。
18歳、奈良の東大寺で受戒。しばらく密教を学んだ。
転機。1292年頃(あるいは1293年)、師の一人が死ぬのを見た。臨終の姿が、乱れていた。「経典を万巻読んでも、この一事は解けない」。翌年、夢を見た。中国の疎山と石頭という二つの寺を訪ねる夢。目覚めて、二つの寺の名から一字ずつ取って「疎石」と名乗り、禅に転じた。
鎌倉。建長寺で無隠円範、円覚寺で桃渓徳悟。1299年、宋から来た一山一寧が建長寺に入ると、その門下へ。しかし一山の下では認められなかった(一山は彼に「まだだ」と言った)。次に、高峰顕日(後嵯峨天皇の皇子で、無学祖元の弟子)に参じた。
1305年、常陸の臼庭(浄居寺)。夜、壁だと思って寄りかかったところに壁がなく、後ろへ倒れた。その拍子に、大笑いした。悟った、と自分で書いている。翌年、高峰顕日が印可(悟りの証明)を与えた。
以後20年、山にいた。土佐(吸江庵)、美濃(永保寺)、上総、三浦、甲斐(浄居寺)。名が広まると、招きが来る。招きが来ると、断って、あるいは黙って、移る。「私は名利のために出るのではない」。彼は、少なくとも6回、招きを断って逃げた記録がある。
1325年、後醍醐天皇の勅で、南禅寺の住持。断りきれずに受けて、1年で辞し、伊勢へ隠れた。1326年、北条高時の招きで鎌倉へ。円覚寺、浄智寺、そして瑞泉寺を開いた。
1333年、鎌倉幕府滅亡。1334年、後醍醐が京へ呼び戻し、臨川寺と南禅寺。「夢窓国師」の号。
1336年、尊氏が後醍醐と決裂した。夢窓は、両方に信頼されていた。1339年、後醍醐が吉野で死ぬと、夢窓は尊氏と直義に、その菩提を弔う寺を建てるよう説いた。敵の菩提を弔う。「怨親平等」。天龍寺。
費用。元へ貿易船を出す案を出した(すでに建長寺船の先例があった)。1342年、天龍寺船が博多を出て、翌年戻り、5000貫を得た。1345年、落慶供養。延暦寺が反対して、後光厳天皇の臨席が中止になるほど揉めた。
作庭。天龍寺曹源池(借景と、龍門瀑の石組)。西芳寺(上下二段。上段の枯山水は日本最古級)。瑞泉寺(岩を彫った庭)。永保寺。恵林寺。
彼自身は、庭を「作った」というより、その地形を読んで、必要な石を置いた。
『夢中問答集』(1342年)。足利直義の93の問いに答える。仮名まじりの平易な文。「造園を好むのは道心の妨げか」「山水に得失なし。得失は人の心にあり。……山水を愛して、それを我が物としようとするのが妨げであり、山水に向かって心を澄ますなら、それは修行である」。
1351年9月30日、死んだ。76歳。臨終に、弟子に言った。「私には三種の弟子がいる。……第三は、酒糟を食らって酔い、なお私の門下を名乗る者。これを弟子とは呼べない」。
弟子1万3000人。夢窓派が、その後の五山を占めた。義堂周信、絶海中津、春屋妙葩(初代の僧録)。
7つの朝廷から国師の号を受けた。日本の禅僧で最多。