元暁の悟り
概要
唐へ向かう途中、暗い所で甘い水を飲んだ。朝、髑髏の水だった。「心が生じれば法が生じる」。唐へ行くのをやめた。還俗して王女と結婚し、瓢箪を叩いて市で歌った。『大乗起信論疏』。仏教を民衆の言葉にした。息子は薛聡。
場所
35.86°N 129.22°E · 大韓民国(新羅の都)
関わった人(2)
元暁AD617年–AD686年 · 悟った義湘AD625年–AD702年 · 共に唐へ向かった本文
7世紀の半ば、朝鮮半島では、高句麗、百済、新羅の三つの国が争っていた。新羅は唐と手を結んで、やがて半島を統一することになる(新羅の朝鮮半島統一)。仏教が伝わってから百年あまり、新羅の僧たちにとって、仏教の最先端の地は唐だった。とくに、インドから膨大な経典を持ち帰った玄奘が(玄奘の西域行)、長安で新しい学問を広めていることは、海を越えて知られていた。
新羅の僧元暁と、八歳年下の義湘は、その新しい学問を学ぶため、唐へ渡ろうと志した。最初の試みは650年、陸路で高句麗を通って行こうとしたが、国境で密偵と疑われて捕らえられ、引き返すことになった。二度目は661年、二人は海路で唐へ渡ろうと、船の出る港へ向かった。
中国の宋の時代にまとめられた僧の伝記によれば、港へ向かう途中、二人は激しい雨に遭い、夜、道ばたの土の穴に身を寄せて眠った。朝になってみると、そこは古い墓で、まわりには骨が散らばっていた。雨はやまず、二人はもう一晩そこに泊まったが、その夜は鬼が出るような恐ろしさに襲われて眠れなかった。昨夜は穴だと思って安らかに眠れたのに、墓だと知った今夜は恐ろしい。同じ場所なのに、変わったのは自分の心だけだ。元暁はそこで、心が生じればさまざまなものが生じ、心が滅すれば穴も墓も違いはない、と悟ったという。
よく知られた、暗がりで飲んだ甘い水が、朝見ると髑髏にたまった水だったという話は、それより後の時代の書物に見える形である。話の細部は伝えによって違うが、すべてのものは心が作り出す、という悟りの中身は共通している。元暁は、真理は外に求めるものではなく、心の中にあるのだから、唐へ行く必要はない、と言って引き返した。義湘はそのまま唐へ渡り、華厳の教えを学んで、のちに新羅に戻って浮石寺を開き、朝鮮の華厳宗の祖となる。

新羅に残った元暁は、驚くほど多くの著作を残した。生涯の著作は八十部を超えるとも、百部とも伝えられる。中でも『大乗起信論』の注釈は、唐の学僧たちにも重んじられ、日本の奈良の寺々でも学ばれた。元暁の思想の特徴は、さまざまな宗派や経典の主張を対立させず、より高い立場から一つに和らげて捉えようとしたところにある。そうした態度は「和諍」と呼ばれる。
元暁は、型破りな僧でもあった。高麗の時代にまとめられた『三国遺事』によれば、元暁は、斧の柄を貸す者はいないか、天を支える柱を切ろう、と謎めいた歌を歌って町を歩いた。王はその意味を読み取り、夫を亡くした王女と元暁を結ばせた。二人のあいだに生まれたのが、のちに新羅を代表する学者となる薛聡である。これを機に元暁は僧の衣を脱ぎ、自ら小姓居士と名乗った。
還俗した元暁は、ひょうたんを打ち鳴らして歌い踊りながら村々を回り、何ものにも妨げられない者は、一つの道によって生死を出る、という経典の言葉を歌にした。貧しい人びとも、山奥の村の人びとも、みな仏の名を知り、南無阿弥陀仏と唱えるようになったと『三国遺事』は伝えている。経典の注釈を書く学僧であると同時に、民衆のあいだに入って仏教を広めた人でもあった。
こうした逸話は、どこまでが事実かはわからない。それでも、元暁が新羅の仏教を、外から学ぶものから、自分たちのものとして考えるものへ変えた人物であることは疑いない。元暁は686年に亡くなった。
元暁と義湘の物語は、海を越えて日本にも伝わった。鎌倉時代の初め、京都の高山寺の明恵は二人を深く敬い、その生涯を描いた絵巻を作らせた。『華厳宗祖師絵伝』と呼ばれるこの絵巻は国宝として残り、墓の中で目を覚ます元暁の場面も描かれている。唐へ渡らずに悟りを得た元暁の話は、いまも韓国で、真理は自分の心の中にあるという教えとして、広く語られている。