アショーカ王の碑文
概要
法(ダルマ)による統治を石柱と岩に刻ませた。インド最古級の文字記録でもある。
場所
23.48°N 77.74°E · インド・マディヤプラデシュ州
関わった人(1)
アショーカ王BC304年頃–BC232年 · 当人本文
紀元前3世紀の半ば、インド亜大陸の各地の岩肌と石の柱に、王の言葉が刻まれた。残っているものだけで、北はアフガニスタンから南はインド南部まで、数十か所にのぼる。その多くは法令ではなく、王が民に語りかける文章である。後悔を打ち明け、生き物を殺すなと説き、他の宗派を貶すなと戒める。古代の帝王が残した文字としては、ほかに例を見つけにくい内容だった。
刻ませたのは、マウリヤ朝の3代目の王アショーカ王である。祖父のチャンドラグプタがマウリヤ朝の成立で建てた帝国を受け継ぎ、在位はおよそ紀元前268年から前232年頃とされる(年代には数年の幅がある)。碑文の中で、王は自分をアショーカとはあまり名乗らず、「神々に愛された、温和な顔の王」と呼んでいる。
碑文が生まれるきっかけは、即位から8年目の戦争だった。王はベンガル湾沿いのカリンガ国を征服した。その経緯は王自身が碑文に書いている。15万人が連れ去られ、10万人が殺され、その何倍もの人が死んだ。そしていまは、カリンガを征服したことを深く悔やんでいる、と。勝った王が、自分の戦争の犠牲を数え上げて後悔を表した文章は、ほとんど類がない(カリンガ戦争とアショーカの改宗)。

この後悔のあと、王は仏教に深く帰依した。ある小さな碑文では、自分が仏教の在家の信者になって2年あまりになると述べている。仏陀ゴータマ・シッダールタの生まれた地とされるルンビニーに建てた石柱には、王がこの地を自ら訪れ、村の税を軽くしたことが刻まれている。
ただ、碑文が説く「ダルマ(法)」は、仏教の教えそのものではない。親と年長者を敬え。師を敬え。奴隷や使用人を正しく扱え。友人や親族、バラモンや修行者に施しをせよ。生き物を殺すな。どの宗派の人にも通じる、人としての正しいふるまいが中心になっている。王はバラモンやジャイナ教徒、アージーヴィカ教徒にも施しをしており、特定の宗教を国の宗教にしたわけではなかった。

宗教どうしの関係を説いた一節は、とりわけよく引かれる。人は自分の宗派だけを称え、他の宗派を理由もなく貶すべきではない。自分の宗派への愛着から他を貶せば、かえって自分の宗派を深く傷つけることになる、という内容である。異なる信仰が隣り合う広い帝国を治めるための、現実的な知恵でもあった。
王は言葉だけでなく、行ったことも書き残した。人のためと家畜のための医療の施設を設け、薬草のない土地には植えさせた。街道には日陰になる木を植え、井戸を掘り、休み所を作った。王の台所ではかつて毎日何十万もの生き物が料理のために殺されていたが、いまは孔雀2羽と鹿1頭だけになり、それもやがてやめる、と書いた碑文もある。正直すぎるほどの書き方である。

帝国のすみずみまでダルマを広めるため、王は専門の役人を置き、5年ごとに国内を巡回させた。使節は国の外にも送られた。ある碑文には、西方のギリシア系の王たち5人の名が並んでいる。シリアのアンティオコス、エジプトのプトレマイオスなど、アレクサンドロス3世の後継者たちの王国である。インドの王の碑文にギリシアの王の名が出ることで、この時代の年代を世界史の年表と突き合わせることができる。
碑文の言葉は、読む人に合わせて変えられていた。大半は各地の話し言葉であるプラークリット語で、文字はブラーフミー文字で書かれている。だが北西部ではカローシュティー文字が使われ、今のアフガニスタンのカンダハールでは、ギリシア語とアラム語で刻まれたものが見つかっている。アレクサンドロスの遠征の後、この地にはギリシア語を話す人々が住み、アラム語はかつてのペルシア帝国の役所の言葉だった。帝国の端まで、王は言葉を届けようとしていた。

石柱そのものも見事な作品である。一本の砂岩から削り出され、表面は鏡のように磨き上げられている。高さは10メートルを超えるものがあり、頂には獅子や牛や象の像が載る。なかでも、仏陀が初めて教えを説いたとされるサールナートの柱頭は、背中合わせに座る4頭の獅子を彫ったもので、インド美術の傑作とされる。
アショーカの死後、マウリヤ朝は半世紀ほどで衰え、紀元前2世紀の初めに滅びた。やがてブラーフミー文字は形を変えて別の文字に移り、古い字形は誰にも読めなくなった。後の人々は、石柱を見ても、それが何を語っているのか分からなかった。アショーカという王の名は、仏教の伝説の中に、仏教を広めた理想の王として残るだけになった。

千年以上の沈黙を破ったのは、19世紀のイギリス人の学者たちである。1837年、カルカッタの造幣局に勤めていたジェームズ・プリンセプが、寄進の短い銘文を手がかりにブラーフミー文字を解読した。石柱の文字が読めるようになり、「神々に愛された王」の言葉が二千年ぶりに理解された。その王が伝説のアショーカと同じ人だと確定したのは、20世紀になって、アショーカの名を含む碑文が見つかってからである。
インドは1947年に独立すると、柱頭の台座にある法の車輪を国旗の中央に置いた。続いてサールナートの獅子の柱頭を国の紋章とし、インド憲法の施行の日に正式に定めた。戦争の悔いから生まれた王の言葉が、二千年あまりのちに、多くの宗教と言語を抱える新しい国のしるしになった。碑文の王がどこまでその理想どおりに国を治めたのかは、碑文以外の史料が乏しく、よく分からない。だが、権力者が自分の暴力を悔い、それを石に刻んで残したという事実は、それだけで重い。