できごと

真臘の興り

Rise of Chenla
AD550年頃
重要度 3
オーストラリア先住民(狩猟採集)ササン朝ペルシアJin Empire北魏(拓跋魏)グプタ朝ヴァーカータカ朝扶南高句麗クシャーナ系の諸侯国ラヴォ日本チャンパKadambasVishnu-Kundins新羅PallavasシンハラAD550年頃アンコール
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD550年頃の版図を描いています(17勢力)。

概要

扶南に代わって内陸の勢力が伸びた。のちのアンコールにつながる。

場所

アンコール
13.41°N 103.87°E · カンボジア

本文

紀元後の早い時期から、メコン川の下流、いまのカンボジア南部からベトナム南部にかけての低地には、扶南と中国の史書が呼ぶ国が栄えていた(扶南の港市)。扶南は海の交易の国だった。インドと中国を結ぶ航路の途中にあり、港には各地の船が出入りし、インドから伝わったヒンドゥー教や仏教、サンスクリット語の文化が根を下ろした。

その扶南の北、メコン川を何百キロもさかのぼった中流域、いまのラオス南部のチャンパーサックのあたりに、クメール人の勢力が育っていた。中国の史書は、この国を「真臘」と呼ぶ。山の頂が自然の男根の形をした聖なる山のふもとに、ワット・プーと呼ばれる聖地があり、真臘の王たちの信仰の中心だったと考えられている。『隋書』によれば、真臘はもともと扶南に従う国だったが、6世紀の後半になって力をつけ、王が扶南を攻めてその地を併せたという。

ヴィエンチャンのパ・タート・ルアン
ヴィエンチャンのパ・タート・ルアンWikimedia Commons Aaron Smith from London, United Kingdom · CC BY 2.0

この時代の王の名は、土地に残る碑文から分かる。6世紀の後半のバヴァヴァルマン1世、その弟とされるマヘーンドラヴァルマン(中国の史書のいう質多斯那)、そしてその子のイーシャーナヴァルマン1世である。イーシャーナヴァルマン1世は7世紀の前半、いまのカンボジア中部のコンポントム州に都を置いた。都の名はイーシャーナプラ。その跡がサンボー・プレイ・クックの遺跡で、森の中に煉瓦造りの祠堂が100以上も残っている。祠堂の壁には、空を飛ぶ宮殿や、神々や人の姿が浮彫で刻まれている。この遺跡は2017年に世界遺産になった。『隋書』には、この都の城下に2万あまりの家があったと書かれている。

扶南と真臘の違いは、しばしば海と陸の違いとして説明される。扶南は港と交易で栄え、真臘は内陸の水田と、雨季と乾季で大きく水位の変わる川と湖を利用した農業の上に成り立った。7世紀に真臘が扶南を併せると、交易の中心はしだいに衰え、クメール人の国の重心は内陸へ移っていった。もっとも、扶南が真臘に一気に滅ぼされたのか、ゆっくり吸収されたのかは、史料が乏しくはっきりしない。

1770年のシャム・トンキン・ペグー王国の地図(ベラン作)
1770年のシャム・トンキン・ペグー王国の地図(ベラン作)Wikimedia Commons Jakob van der Schley (1715-1779) edition of Jacques Nicolas Bellin's map (1703-1772) · Public domain

真臘の時代は、カンボジアの言葉が初めて文字で書かれた時代でもある。インドから伝わった文字で、王の系譜や神々への賛美はサンスクリット語で、寺への寄進の中身はクメール語で刻まれた。日付の分かる最も古いクメール語の碑文は、611年のものとされる。サンスクリット語の部分は美しい韻文で王の徳と神の偉大さを讃え、クメール語の部分は、寺に寄進された田の広さ、水牛の数、仕える人々の名を、帳簿のように書き並べる。神と王を語る言葉と、暮らしと財産を記す言葉が、はっきりと使い分けられていた。

王たちが主に祀ったのはヒンドゥー教の神々で、とりわけシヴァ神と、シヴァとヴィシュヌが一つになったハリハラが好まれた。シヴァを表すリンガ(男根の形の石)が各地の祠堂に据えられた。仏教も並んで信仰されていた。

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Wikimedia Commons Lachy70 · Public domain

8世紀の初め、中国の史書は、真臘が北の「陸真臘」と南の「水真臘」の二つに分かれたと記す。陸真臘は山の多い北の内陸を、水真臘は南の湖と川の多い低地を指すらしい。だが碑文を見ると、この時代のクメールの地には、もっと多くの小さな勢力がそれぞれ王を名乗って並び立っていたようである。中国側から見た大まかな区分と考えたほうがよい。南の沿岸部には、海を越えてジャワの勢力が及んだとも言われる。ジャワでは同じころ、シャイレーンドラ朝の下でボロブドゥールが建てられていた(ボロブドゥールの造営)。

この分かれた国々を再び一つにしたのが、ジャヤーヴァルマン2世である。11世紀の碑文によれば、彼は「ジャワ」から戻ってきて各地を従え、802年、アンコールの北東にあるクーレン山の上で、儀式を行わせて自らを宇宙の唯一の王、転輪聖王と宣言し、ジャワに従うことをやめたという。この「ジャワ」が島のジャワを指すのか、ほかの土地を指すのか、802年という年が正しいのかについては、研究者の間で議論が続いている。近年、レーザーを使った空からの測量で、クーレン山の上に、森に埋もれた都の跡が広く見つかっている。

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Wikimedia Commons Hoàng Hữu Xứng (1831-1905) · Public domain

ジャヤーヴァルマン2世のあと、王たちはトンレサップ湖の北の平野に都を移し、大きな貯水池と寺院を次々に築いていった。こうして、9世紀から15世紀まで続くアンコールの時代が始まる(アンコールの隆盛)。アンコール・ワットやアンコール・トムに見られるクメールの建築と彫刻、王と神を重ねる思想、サンスクリットとクメール語の使い分けは、いずれも真臘の時代に形を整えたものだった(クメール帝国)。

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