人物

法然

Hōnen
AD1133年 – AD1212年(享年79・推定)
日本重要度 4

概要

9歳で父を夜討ちに殺され、「敵を恨むな」と遺言された。比叡山で30年学び、43歳で山を下りて、念仏だけを説いた。弟子が女官を出家させた咎で75歳で四国に流された。親鸞はその弟子。

所属

日本

関わったできごと(1)

法然の専修念仏AD1175年 · 開祖

本文

1133年、美作国久米(いまの岡山県久米南町)に生まれた。父の漆間時国は、その地方の治安を預かる押領使で、幼名を勢至丸といった。1141年、9歳のとき、荘園の管理をめぐって対立していた明石定明が夜討ちをかけ、父は深手を負った。死の床で父は息子に、敵を恨んではならない、恨めば仇討ちが代々続いて終わることがない、出家して私の菩提を弔い、自分も救われる道を求めよ、と言い残したと伝えられる。法然の伝記が伝える話で、どこまで事実かは分からないが、法然の生涯の出発点として語り継がれてきた。

法然の肖像
法然の肖像Wikimedia Commons Fujiwara, Takanobu (1142-1205) · Public domain

少年は母方の叔父が住職を務める寺に預けられ、やがてその勧めで比叡山に上った。13歳とも15歳とも言われる。比叡山は天台宗の総本山で、当時の日本の学問の中心だった。皇円らに学んだが、18歳で学僧として出世する道を捨て、山の奥の西塔黒谷にこもる叡空の弟子になった。このとき法然房源空と名乗った。以後20年以上、黒谷で経典を読み続けた。膨大な仏典をまとめた一切経を5度読み通したと伝えられ、「智慧第一の法然房」と呼ばれた。奈良の寺々にも学びに行き、各宗の学者と議論した。

それでも、法然は自分が救われる道を見つけられなかった。比叡山の仏教は、厳しい戒律を守り、修行を積み、学問を極めた者が悟りに近づくというものだった。だが、戒律を完全に守ることも、深い瞑想をなしとげることも、自分にはできない。まして、田畑で働く人々や、殺生を生業とする武士や漁師、身を売る女性たちに、その道は閉ざされている。世の中は末法に入ったと信じられ(末法の始まり)、源平の争乱を前に社会は不安に満ちていた。

法然上人絵伝
法然上人絵伝Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1175年、43歳の法然は、中国唐代の僧、善導の書いた経典の注釈の中に、一心にもっぱら阿弥陀仏の名を称え、歩くときも座るときも時を選ばずに念仏を続けることこそ、仏の誓いにかなう正しい行いである、という一節を見いだした。阿弥陀仏は、自分の名を称える者を必ず浄土に迎えると誓っている。ならば、ほかの修行は要らない。ただ念仏を称えればよい。法然はこれを確信して比叡山を下り、京の東山の吉水に庵を結んだ。専修念仏、ただ念仏だけを修めるという教えの始まりである(法然の専修念仏)。念仏の教えそのものは、源信が著した往生の手引き(源信『往生要集』)以来広まっていたが、念仏以外の行を必要としないと言い切ったところに法然の新しさがあった。

法然の説法は平易で、身分を問わずに人々が集まった。関白を務めた九条兼実は深く帰依し、その求めに応じて法然は、念仏こそが選び取られた行であることを論じた『選択本願念仏集』を書いた。一ノ谷の戦い(一ノ谷の戦い)で若い平敦盛を討った坂東の武士、熊谷直実は、罪の深い自分でも救われるのかと泣いて問い、念仏さえすれば救われると聞いて出家した。播磨の室津の港で、小舟で近づいてきた遊女に、そのままの身で念仏をすれば救われると答えた話も伝えられている。1201年には、比叡山で20年修行してなお迷っていた若い僧が弟子になった。のちの親鸞である。

一ノ谷の戦いに関わる図版:Battle of Ichi-no-Tani Folding Screen by Kano School
一ノ谷の戦いWikimedia Commons Kano School · Public domain

教えが広まるにつれ、旧来の仏教からの反発も強まった。念仏さえすればどんな罪も問われないと言って戒律を破る弟子が出たことも、攻撃の口実になった。1204年、比叡山の僧たちが念仏の禁止を朝廷に訴えると、法然は弟子たちを戒める7か条の誓いを書き、門弟に署名させた。翌年には奈良の興福寺も、念仏を禁じるよう求める訴えを朝廷に出した。

1206年、事件が起きた。後鳥羽上皇が熊野に参詣している間に、法然の弟子の住蓮と安楽が開いた念仏の集まりに上皇に仕える女房たちが加わり、無断で出家してしまった。戻った上皇は激怒した。翌1207年、住蓮と安楽ら4人は死罪となり、法然は僧の資格を奪われて土佐へ、親鸞は越後へ流されることになった。法然75歳。弟子たちが嘆くと、法然は、都にいては教えられない地方の人々に念仏を伝える機会を得たのだから、これは朝廷の恵みだ、と言ったと伝えられる。実際には讃岐にとどまり、その年のうちに罪を許された。

法然上人廟所(知恩院)
法然上人廟所(知恩院)Wikimedia Commons mariemon · CC BY 3.0

だが、京に戻ることはすぐには許されなかった。摂津の勝尾寺で4年を過ごし、1211年11月にようやく京に帰った。年が明けると病が重くなった。死の二日前、弟子の求めに応じて一枚の紙に教えの要点を書いた。学問を積んだ者も、自分を文字一つ知らない愚かな者と同じだと思い、知恵ある者のふるまいをせずに、ただひたすら念仏しなさい、という内容で、『一枚起請文』と呼ばれる。1212年1月25日、法然は亡くなった。80歳だった。

法然の死後も、念仏への弾圧はたびたび起きたが、教えは消えなかった。弟子たちはそれぞれの解釈で教えを広め、浄土宗のほか、親鸞の流れの浄土真宗などに分かれていった(親鸞『教行信証』)。学問も戒律もできない者こそ救われる、という考えは、ごく一部の人のものだった仏教を、ふつうの人々の信仰に変えた。鎌倉時代に次々に現れた新しい仏教の、最初の扉を開いた人だった。

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