できごと

吐蕃の高原統一

Songtsen Gampo unifies Tibet
AD630年頃
重要度 4
古シベリアの狩猟採集民西アフリカの穀作農民唐ササン朝ペルシアヒンドゥーの諸王国突厥吐蕃カナウジチャールキヤ朝ガウダ王国(シャシャーンカ)インドの影響下の小国群ササン朝の従属国高句麗タイ系の諸王国PallavasKamarupa真臘ドヴァーラヴァティー扶南日本チャーハマーナ朝チャンパ新羅MazunシンハラAD630年頃ラサ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD630年頃の版図を描いています(25勢力)。

概要

諸部族を一つにし、都をラサに置いた。唐とネパールから妃を迎え、チベット文字を作らせた。以後200年、唐と対等に戦う国になる。

場所

ラサ
29.65°N 91.17°E · 中国・チベット自治区

関わった人(1)

ソンツェン・ガンポAD605年頃–AD649年 · 王

本文

7世紀のはじめまで、チベット高原は一つの国ではなかった。標高4000メートルを超える高原と谷あいに、多くの氏族や小王国が並び立ち、互いに争ったり同盟したりしていた。その中で力を伸ばしたのが、高原の南、ヤルルン渓谷を本拠とする王家である。ソンツェン・ガンポの父ナムリ・ソンツェンは、有力な氏族たちと誓いを交わして周辺の勢力を次々に従え、高原の中央部へ勢力を広げた。

ところが父は毒殺される。従ったばかりの氏族たちが離反し、母方の一族まで背いたと、のちに敦煌で見つかったチベット語の年代記は記している。後を継いだソンツェン・ガンポは、伝承では13歳ほどだった。若い王は反乱を起こした者たちを討ち、父の代の誓いを結び直して、高原の諸勢力をあらためて一つにまとめた。西の大国シャンシュンとは婚姻で結び、のちに滅ぼして併合している。

ソンツェン・ガンポと文成公主(右)、チツン(左)
ソンツェン・ガンポと文成公主(右)、チツン(左)Wikimedia Commons Ernst Stavro Blofeld · Public domain

都は、ヤルルンからキチュ川のほとりのラサへ移された。ラサが高原の中心になるのはこのときからである。王は国を軍事と行政の単位に分け、官位を定め、税と兵役の仕組みを整えた。殺人や盗みへの罰を定めた法も、この時代に作られたと伝えられる。

高原を一つにした王は、外へ目を向けた。唐の都長安へ使いを送り、皇女を妃に迎えたいと求めた。いったん断られると、王は唐の西の境に兵を出して圧力をかけ、交渉をやり直した。こうして641年、唐の唐の太宗の一族の娘とされる文成公主がラサへ嫁いできた(文成公主の入蔵)。ネパールからも王女ブリクティを迎えたと伝えられるが、こちらは同時代の確かな記録が乏しく、実在を疑う研究者もいる。

ソンツェン・ガンポ王の肖像
ソンツェン・ガンポ王の肖像Wikimedia Commons Bhavna Sayana · CC BY 2.0

後世のチベットの歴史書は、この二人の妃がそれぞれ仏像を持参し、ラサに寺を建てたと語る。ラサの中心に立つジョカン(大昭寺)とラモチェ(小昭寺)は、その由来を持つ寺として、いまも巡礼者を集めている。ただ、王自身がどこまで仏教を信じたのかははっきりせず、仏教が国の宗教として根づくのは、100年以上後のティソン・デツェンの時代である。王を仏教の守護者として描く物語の多くは、仏教が広まった後に作られたものとみられている。

文字の誕生も、この王の時代のこととされる。伝承では、大臣トンミ・サンボータがインドへ派遣されて学び、インドの文字をもとにチベット文字と文法を作ったという。個人の業績としてどこまで本当かは議論があるが、7世紀のうちにチベット語を書き記す文字が整い、行政の記録や法が文字で残されるようになったことは確かである。

インド・デラドゥンにあるソンツェン図書館
インド・デラドゥンにあるソンツェン図書館Wikimedia Commons Bhavna Sayana · CC BY 2.0

唐との関係は、婚姻の後しばらく穏やかだった。唐の太宗が649年に亡くなると、次の高宗はソンツェン・ガンポに位と称号を贈り、王は唐に背く者があれば兵を出して討つと書き送ったと唐の記録は伝える。インドへの道も開かれていた。唐の使者の王玄策がインドで襲われたとき、吐蕃とネパールが兵を貸したという話も残っている。

ソンツェン・ガンポは649年か650年に没した。幼い孫が後を継ぎ、実際の政治は大臣のガル・トンツェン(禄東贊)とその一族が長く握った。その後、吐蕃(吐蕃)はさらに勢いを増し、タリム盆地のオアシス都市を唐と奪い合い、763年には一時唐の都長安まで占領する(吐蕃の長安占領)。高原の国は200年あまりにわたり、唐と肩を並べる大国であり続けた。

ソンツェン・ガンポ王像、チベット中央部、17世紀
ソンツェン・ガンポ王像、チベット中央部、17世紀Wikimedia Commons Public domain

チベットの人びとは、ソンツェン・ガンポを観音菩薩の化身として敬い、国を開いた法王として語り継いできた。統一、都の建設、文字、法、そして仏教との出会い。のちのチベットの基礎とみなされるものが、この一人の王の時代に集められている。そのすべてを王一人の業績とみるのは後世の物語だが、高原が初めて一つの国として歴史に現れたのが、この時代だったことに変わりはない。

同じ時代のできごと

ヘラクレイオスの治世610年大運河の完成AD610年薩水の戦いAD612年コルンバヌスのボッビオAD614年唐の成立AD618年ヒジュラ(聖遷)AD622年アザーンAD7世紀前半イシドルス『語源』AD630年頃
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