できごと

クシャーナ朝の隆盛

Rise of the Kushan Empire
AD127年頃
重要度 4
古シベリアの狩猟採集民ローマフィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民西アフリカの穀作農民漢パルティアサカ族の王国ヒンドゥーの諸王国スーレーン家の王国クシャーナ朝サータヴァーハナ朝メロエヒムヤル王国Plain-Pottery cultureアランカリンガアクスム王国アルメニア南匈奴ナバテア王国Milograd cultureスキタイハドラマウトブレンミュエスYuebanシンハラAD127年頃タキシラ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD127年頃の版図を描いています(26勢力)。

概要

中央アジアと北インドを結び、東西の交易と仏教の伝播を担った。ガンダーラの仏像が広がる。

場所

タキシラ
33.75°N 72.79°E · パキスタン・パンジャーブ州

関わった人(1)

カニシカ王当人

本文

前2世紀、中国の西北の河西のあたりにいた遊牧の民、月氏は、匈奴に敗れて西へ逃れた。彼らは中央アジアを移り、アム川の流域、ギリシア系の王国が栄えたバクトリアの地に落ち着いた。漢の武帝が匈奴を挟み撃ちにしようと張騫を送ったのは、この月氏のもとだった(張騫の西域派遣)。月氏は誘いに乗らなかった。新しい土地は豊かで、もう匈奴に報復する気はなかったと、司馬遷は書いている。

月氏の下には五つの有力な一族があり、そのうちの一つが貴霜(クシャーナ)だった。1世紀、クシャーナの首長クジュラ・カドフィセスがほかの四つを倒して王を名乗ったと、『後漢書』は伝える。彼とその子孫は、ヒンドゥークシュの山を越えて南へ進み、ガンダーラ、そして北インドへと版図を広げた。班超の西域経営の時代には、クシャーナは漢と西域の支配を争い、軍を送って班超に退けられている。

クシャーナ朝の信者の肖像
クシャーナ朝の信者の肖像Wikimedia Commons Metropolitan Museum of Art · CC0

最盛期は、2世紀のカニシカ王の時代になる。版図はアム川の北からガンジス川の中流まで、いまのウズベキスタン、アフガニスタン、パキスタン、北インドにまたがった。都はガンダーラのプルシャプラ(いまのペシャワール)とされ、インド側のマトゥラーも重要な拠点だった。西にパルティア、東に漢、南にインドの諸王国。陸の道と海の道が交わるところに座ったことになる。

アフガニスタンのベグラムで見つかった宝物の倉には、ローマのガラスの器と青銅の像、インドの象牙の細工、中国の漆器が並んでいた。シルクロードを東西に、インド洋を南北に行き交う品物の交差点が、この王朝だった。ローマの金貨が流れ込み、クシャーナはそれを鋳直して自分たちの金貨にしたとも考えられている。

スルフ・コタル出土のバクトリア語碑文(1957年発掘)
スルフ・コタル出土のバクトリア語碑文(1957年発掘)Wikimedia Commons Kushan Emperor Kanishka (2nd century CE) · Public domain

貨幣には、王の姿とともに、さまざまな神が刻まれた。ギリシアのヘラクレス、イランの太陽神ミスラや月の神、メソポタミアに由来する女神ナナ、シヴァと見られる神、そして「ボド」と記された仏陀の立像まで並ぶ。どれか一つを国の宗教にしなかった王朝だった。1993年にアフガニスタンで見つかったラバータクの碑文には、カニシカがそれまでのギリシア語に代えて、土地の言葉であるバクトリア語を公の言葉にしたことが記されている。

仏教の側では、カニシカはゴータマ・シッダールタの教えを篤く保護した王として語り継がれる。カシミールで仏典の大規模な編纂を行わせたとも、詩人の馬鳴(アシュヴァゴーシャ)を宮廷に招いたとも伝えられるが、どこまでが史実かは分からない。ペシャワールに巨大な仏塔を建てたことは、のちにここを訪れた中国の僧たちが書き残しており、遺跡も見つかっている。

この時代、ガンダーラで、仏陀が人の姿で彫られるようになった(ガンダーラの仏像)。それまで仏陀は、足跡や菩提樹、空の座や法輪で示すもので、姿を刻まないことのほうが決まりだった。衣の襞の彫り方や波打つ髪、写実的な顔立ちには、ギリシアとローマの彫刻の影響がはっきり見える。アレクサンドロスの東方遠征の後、この地に残ったギリシア系の王国の伝統と、ローマとの交易で入ってきた技術が、ここで仏教と出会った。ただし、仏像がガンダーラで最初に生まれたのか、インド風の作りのマトゥラーの仏像とほぼ同時だったのか、どちらが先かは長く論争が続いていて、決着していない。

ガンダーラの仏像に関わる図版:Gandhara Buddha (tnm)
ガンダーラの仏像Wikimedia Commons World Imaging · Public domain

仏教と仏の姿は、クシャーナの国から中央アジアのオアシスを通って中国へ伝わった(仏教が中国へ)。2世紀の後半、後漢の都洛陽で仏典を訳した僧の中には、月氏の出身の者がいた。仏像の形は、そこから朝鮮へ、日本へ渡る。奈良の仏像の顔立ちの遠い先祖が、ここにある。

カニシカの即位年は、長く議論されてきた。インドで使われるシャカ紀元が始まる78年とする説から、144年ごろとする説まであった。いまは127年ごろとする説が有力になっていて、この年表もそれに従っている。カニシカの後、王朝は3世紀にかけて衰え、西の領土は新しく興ったササン朝ペルシアに奪われた(ササン朝の成立)。229年には、王ヴァースデーヴァが中国の魏に使いを送り、「親魏大月氏王」の称号を受けている。クシャーナの名は消えたが、その道を通って広まった仏教は、アジアの東の端まで届いた。

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