親鸞
概要
9歳で比叡山、29歳で下りて法然に。承元の法難で越後に流され、僧籍を奪われた。「愚禿」。恵信尼と結婚した。関東で20年。「他力」。「悪人正機」。息子善鸞を義絶した。90歳で死に、娘覚信尼が墓を守り、それが本願寺になった。
関わったできごと(1)
親鸞『教行信証』AD1224年頃 · 著者本文
1173年、京都の南東の日野の里で、下級貴族の日野有範の子として生まれた。日野家は藤原氏の流れをくむ学問の家だったが、有範は早く官職を退き、親鸞の幼いころの家の事情はよく分かっていない。9歳で、のちに天台座主となる慈円のもとで出家した。得度の儀式を翌日にと言われた幼い親鸞が、明日ありと思う心のあだ桜、夜半に嵐の吹かぬものかは、と詠んで、その日のうちに得度を受けたという話があるが、後世の伝説である。

それから20年、比叡山で修行した。妻の恵信尼が後に娘に書き送った手紙によれば、親鸞は山で「堂僧」を務めていた。常行三昧堂で、阿弥陀仏の名を唱えながら仏像のまわりを90日間歩き続けるような修行に仕える僧である。だが、どれほど修行を重ねても、煩悩を断ち切って悟りに至れるという確信は得られなかった。
1201年、29歳の親鸞は山を下りた。京都の六角堂に100日間こもり、救いの道を祈った。恵信尼の手紙によれば、95日目の明け方、聖徳太子が夢に現れて言葉を授けた。これをきっかけに、親鸞は東山の吉水で念仏を説いていた法然のもとを訪ねた。それから100日、雨の日も晴れの日も通い詰め、ただ念仏して阿弥陀仏に救われるという法然の教えを受け入れた(法然の専修念仏)。比叡山の厳しい修行を捨て、師の教えに一生を預けることになる。

『歎異抄』には、親鸞の言葉としてこう伝えられている。たとえ法然上人にだまされて、念仏して地獄に落ちたとしても、少しも後悔しない。どんな修行もやり遂げられない自分には、どのみち地獄のほかに住む場所はないのだから。法然の門に入って4年後の1205年、親鸞は法然の主著『選択本願念仏集』を書き写すことと、師の肖像を描くことを許された。限られた弟子にしか許されない信頼の証だった。
だが、念仏の教えは急速に広まり、比叡山や奈良の寺々から激しい反発を受けた。1207年、法然の弟子が後鳥羽上皇の留守中に御所の女房たちを出家させたことが上皇の怒りを買い、念仏を唱えることが禁じられた。弟子4人が死罪となり、法然は四国へ、親鸞は越後へ流された。承元の法難である。親鸞は僧の身分を奪われ、藤井善信という俗人の名を与えられた。

ここで親鸞は、自らを「愚禿」と名のるようになる。愚かな、頭を剃っただけの者という意味である。もはや朝廷の認める僧ではないが、ただの俗人に戻ったのでもない。「僧にあらず、俗にあらず」という生き方を、親鸞はこの流罪の中で選び取った。越後では恵信尼と暮らし、子をもうけた。二人が結ばれたのが流罪の前か後かは、はっきりしない。僧が公然と妻を持ち、肉を食べることは、当時の仏教の戒律に背くことだった。親鸞はそれを隠さなかった。
1211年に赦免されたが、京都には戻らなかった。翌年、師の法然は京都で亡くなっている。1214年頃、親鸞は家族を連れて関東へ移り、常陸の稲田を拠点に、20年ほど念仏を説いて回った。教えを聞いたのは、農民や武士、商人、狩りや漁で生き物を殺して暮らす人々だった。親鸞はここで、主著『教行信証』の筆を進めた(親鸞『教行信証』)。

親鸞の教えの中心は、阿弥陀仏の力、すなわち「他力」である。人は自分の力で悟りに至ることはできない。念仏を唱えることさえ、自分の手柄ではなく、阿弥陀仏から差し向けられたものである。阿弥陀仏は、自分の力ではどうにもならない者をこそ救うと誓った。『歎異抄』の、善人でさえ往生できるのだから、まして悪人が往生できないことがあろうか、という言葉はここから来る。ここで言う悪人とは、罪を犯すことを勧められた人ではなく、自分の力では善を積めないと思い知った人のことである。この考えは師の法然にさかのぼるとする見方もある。
60歳を過ぎたころ、親鸞は京都に戻った。住まいを転々としながら、関東の弟子たちに手紙を書き、和讃(仏をたたえる歌)を作り、著作に手を入れ続けた。ところが関東では、念仏の受け取り方をめぐって弟子たちの間に混乱が起きた。悪人こそ救われるのだから、悪いことをしてもかまわないと言い出す者もいた。親鸞は、混乱を収めるために息子の善鸞を関東に送った。ところが善鸞は、自分だけが夜ひそかに父から特別な教えを授かったと言い出し、門弟たちをかえって惑わせた。1256年、84歳の親鸞は、善鸞を親子の縁を切ると書いた手紙を送った。

『歎異抄』には、親鸞は弟子を一人も持たない、という言葉も残っている。念仏する人は、すべて阿弥陀仏によって念仏させていただいているのであって、自分の弟子ではない、というのである。親鸞は自分の寺を建てなかった。
1263年1月、弟の住まいで、数えで90歳の生涯を閉じた。臨終には末娘の覚信尼らが付き添った。恵信尼は越後に戻っていて、知らせを受けて娘に手紙を書き送り、若き日の親鸞が六角堂にこもり、法然のもとに通った日々のことを書き残した。

覚信尼は京都の東山の大谷に父の墓所を設け、自分の子孫がその守り役になると定めた。この廟堂が、親鸞の曾孫の覚如のころに寺となり、本願寺と呼ばれるようになる。寺を建てなかった親鸞の墓が、日本で最も大きな教団の一つの本山になったのである。15世紀には蓮如が出て、平易な手紙で教えを広め、門徒は爆発的に増えた(蓮如の吉崎御坊)。門徒たちはやがて大名と戦う力まで持ち、加賀の一向一揆のように一国を支配するまでになった。
近代に入って、親鸞が本当に実在したのかを疑う学者が現れた。同時代の確かな記録に、親鸞の名がほとんど出てこないからである。ところが1921年、西本願寺の宝物庫から恵信尼の手紙10通が見つかった。比叡山での務め、六角堂の夢、法然との出会いが妻の手で記されていたことで、疑いは消えた。

肉を食べ妻を持つことを隠さず、自分を愚かな者と呼び、救いを阿弥陀仏の力にすべて委ねた。その教えは、修行のできない普通の人々に向けられていた。鎌倉時代に生まれた新しい仏教(物語「鎌倉文化 — 武士と民衆の仏教」)の中でも、親鸞の浄土真宗は、今も日本で最も多くの寺と門徒を持つ宗派の一つである。