法顕の求法の旅
概要
60歳を過ぎて長安を発ち、砂漠を越えてインドへ行き、海路スリランカ経由で帰った。玄奘の200年前。
場所
25.61°N 85.14°E · インド・ビハール州パトナ
関わった人(1)
法顕AD337年頃–AD422年頃 · 当人本文
4世紀の末、中国には仏教の経典がかなり入っていたが、僧が守るべき規則を定めた「律」は断片しか伝わっていなかった。僧団が大きくなるほど、何をしてよく何をしてはいけないかの拠りどころがいる。長安にいた法顕は、それを本場のインドで写してくると決めた。399年、すでに60歳を過ぎていたとされる。同じ志を持つ慧景・道整らの僧が連れ立った。
一行は河西回廊を西へ進み、敦煌から先の砂漠に入った。法顕は旅の記録『仏国記』(『法顕伝』ともいう)に、そこをこう書いている。空には飛ぶ鳥がなく、地には走る獣がない。見渡すかぎり行く道が分からず、ただ死人の枯れた骨を目印にするだけだ、と。その先のホータン(于闐)では、仏像を車に載せて町を巡る盛大な祭りを見て、しばらく足を止めている。

パミールの山越えでは、断崖に刻まれた細い道と縄の橋を渡った。ガンダーラの仏跡を巡ったあと、小雪山という峠を越えるときには、同行の慧景が寒さで倒れ、口から白い泡を吹いて息を引き取った。法顕は亡骸をなでて泣いたと記している。出発時の仲間は、ある者は途中で引き返し、ある者は病で倒れ、ある者はインドに残った。
峠を越えた一行は、マトゥラーを経てガンジス川流域の仏跡を巡った。当時の北インドはグプタ朝の盛りにあたる(グプタ朝の黄金時代)。法顕は、人々が豊かで、刑罰は軽く、殺生を嫌って肉や酒を口にしない、と書き残した。旧都パータリプトラでは、アショーカ王の宮殿の跡を見て、石を積み上げた壁や彫刻は人の手でできるものではないと驚いている。法顕はこの町に3年とどまり、梵語を学んで律と経典を書き写した。道整はインドの僧の暮らしぶりに感じ入り、ここに残って帰らなかった。
法顕は一人で帰国の途についた。ガンジス河口の港で2年写経を続けたあと、商船でスリランカへ渡り、そこでも2年を過ごしている。ある日、寺の仏像の前に、商人が中国の白い絹の扇を供えているのを見た。故郷を離れてすでに十数年、知る人もいない土地で、思わず涙がこぼれたという。
帰りは海路を取った。スリランカから出た船は嵐で浸水し、商人たちは荷を海へ捨てた。法顕は持ち帰る経典と仏像まで捨てられるのを恐れ、ひたすら祈ったと書く。東南アジアの島(ジャワかスマトラとされる)で5か月ほど風を待ち、広州へ向かう船に乗り換えた。ところがこの船も嵐に遭い、乗っていたバラモンたちが、この僧を乗せたせいで災いが来た、どこかの島に下ろしてしまおうと言い出した。法顕を船に乗せた後援者が、それなら自分も下ろせ、漢の地に着いたら王に訴えると言ってかばい、事なきを得た。

船は目指す広州を大きく外れ、412年に山東半島の海岸に流れ着いた。土地の人に聞いてようやく、そこが晋の領内だと分かったという。長安を出てから14年近くが過ぎていた。法顕は長安へは戻らず、南の都の建康に入り、インドの僧・仏陀跋陀羅とともに、持ち帰った律や涅槃経の翻訳に取りかかった。
『仏国記』は短い書物だが、5世紀初めの中央アジア・インド・スリランカのようすを目で見た人が書いた記録として、今も歴史家に読まれている。グプタ朝の社会を伝える同時代の記録は少なく、とくに貴重とされる。同じ頃、長安には西域から鳩摩羅什が迎えられ(鳩摩羅什の長安入り)、経典を中国へ運び込む流れは東西両方から太くなっていった。

法顕の旅から200年あまりのち、玄奘が、同じように国の禁を冒してインドへ向かう(玄奘の西域行)。玄奘の旅行記にも先人としての法顕の名が出てくる。60を過ぎて砂漠に入った老僧は、年齢を言い訳にしないで行けるところまで行く人の手本として、のちの求法僧たちに思い出され続けた。法顕は晩年を荊州の寺で過ごし、そこで亡くなったとされるが、没年と享年には諸説がある。