人物

源信

Genshin
AD942年 – AD1017年7月6日(享年75・推定)
平安時代重要度 5

概要

大和の生まれ。9歳で比叡山。母に「名利を求めるな」と叱られ、横川に籠もった。恵心僧都。『往生要集』。二十五三昧会。『一乗要決』。源氏物語の横川の僧都は彼がモデル。法然が「善導と源信」を師と仰いだ。

関わったできごと(1)

源信『往生要集』AD985年(寛和元年) · 著者

本文

源信は942年、大和国葛城郡の当麻に生まれた。父は卜部正親、母は清原氏と伝えられる。幼くして父を失い、9歳で比叡山に登ったとされる。師は横川を再興した良源(元三大師、慈恵大師)で、源信はその門下で天台の教学を学び、論議に優れた若い僧として頭角を現した。

恵心僧都誕生霊地碑(奈良県香芝市)
恵心僧都誕生霊地碑(奈良県香芝市)Wikimedia Commons Saigen Jiro · CC0

15歳のとき、宮中で『称讃浄土経』を講じ、村上天皇から褒美の品を賜った、という話が残る。源信は誇らしくそれを故郷の母に送った。ところが母は品を送り返し、「あなたを僧にしたのは、この世で名を上げるためではない。来世を救う橋になってほしかったのに、世を渡る僧になったのが悲しい」という意味の歌を添えた、と伝えられる。話の細部は後世の伝記によって違うが、源信がこの戒めを受けて名利を捨て、比叡山の奥の横川に籠もった、というのが伝記の骨格になっている。住んだ恵心院の名から、後に「恵心僧都」と呼ばれる。

源信が生きた10世紀後半は、応天門の変から百年ほどを経て摂関家が政治を握り、比叡山そのものも大寺院として荘園と僧兵を抱えるようになっていた時代である。一方で、京の町では空也が念仏を唱えて歩き、阿弥陀仏の極楽へ往生したいという願いが貴族から庶民へと広がり始めていた。源信の仕事は、その漠然とした願いに、経典の裏付けと具体的な方法を与えることだった。

応天門の変に関わる図版:Heian-jingu, Outen-mon-3
応天門の変Wikimedia Commons Saigen Jiro · CC0

984年の冬に筆を起こし、985年4月に完成したのが源信『往生要集』である。源信は百六十余りの経典と論書から文章を抜き出し、地獄の恐ろしさ、極楽の美しさ、そこに生まれるための念仏の方法、臨終の作法を順に並べた。冒頭の「厭離穢土」で描かれる八大地獄は、刀の葉の林や煮えたぎる釜、焼けた鉄の山が経典の言葉どおりに積み重ねられ、読む者を震え上がらせた。後の地獄絵や六道絵は、多くがこの書を下敷きにしている。日本人が思い浮かべる地獄の姿は、かなりの部分が源信の抜き書きから来ている。

書は十の章から成る。穢れたこの世を厭い離れること、極楽を願い求めること、極楽がたしかにある証拠、念仏の正しい修め方、それを助ける方法、日を限って行う念仏、念仏の功徳とその証拠、念仏以外の往生の行い、そして問答。源信は自分の考えをほとんど書かず、経典の言葉を選んで並べることに徹した。とくに後世に影響を与えたのが、臨終の作法を説いた部分である。病人を寺の別の堂に移し、西に向けて寝かせ、阿弥陀仏の像の手に五色の糸をかけて病人に握らせる。看取る者は枕元で念仏を唱え、病人が見たものを尋ねて記す。死を迎える場面に決まった型を与えたこの記述は、貴族たちの臨終の作法として広まった。藤原道長も、死の床でこの作法に従ったと伝えられる。

延暦寺横川地区を示す『山門三塔坂本惣絵図』
延暦寺横川地区を示す『山門三塔坂本惣絵図』Wikimedia Commons Author unknown · Public domain

ただし源信が説いた念仏は、口で名を唱えるだけのものではない。中心にあるのは、阿弥陀仏の姿、とくに眉間の白毫を心に思い描く観想の念仏で、口に唱える念仏はそれができない人のための道として位置づけられていた。源信自身は天台の学僧であり続けた。1006年には『一乗要決』を著し、すべての人が仏になれるという天台の一乗の立場から、成仏できない者がいると説く法相宗の五性各別説に反論している。

986年には、横川の僧たち二十五人が「二十五三昧会」を結んだ。毎月十五日に集まって念仏し、仲間が死の床につけば皆で看取り、極楽へ往生できるよう念仏を絶やさない、という約束である。源信はその指導者として規則を定め、文人の慶滋保胤(出家して寂心)もこの結社に関わった。人の死を一人で迎えさせない、という仕組みが、ここで初めて形になった。

『往生要集』は宋の商人に託されて中国に渡り、彼の地の僧から称賛されたと伝えられる。1004年には権少僧都に任じられたが、まもなく辞したとされる。それでも「僧都」の名は残った。

1017年6月10日(旧暦)、源信は横川で死んだ。76歳。阿弥陀像の手に結んだ糸を握り、念仏しながら息を引き取ったと伝えられる。それは二十五三昧会で自ら定めた臨終の作法そのものだった。

同じ頃、宮中では紫式部が『源氏物語』を書いていた。その最終盤「宇治十帖」に登場し、入水しようとした浮舟を助けて出家させる「横川の僧都」は、源信がモデルだとする説が古くからある。確証はないが、紫式部が横川に高名な僧がいることを知っていたのは確かだろう。藤原道長の子の頼通が建てた平等院鳳凰堂も、源信が描いた極楽を地上に写そうとした試みの一つである。

『源氏物語』に関わる図版:Genji emaki 01003 002
『源氏物語』Wikimedia Commons Imperial Palace Kyoto · Public domain

源信の影響が本当に大きくなるのは、死んでから百五十年後である。比叡山で学んだ法然は『往生要集』を手引きに唐の善導の書に出会い、専修念仏に至った。その弟子の親鸞は、浄土の教えを伝えた七人の高僧の一人に源信を数え、『正信偈』に名を刻んだ。源信自身は天台の僧として生き、念仏を数ある修行の一つと考えていた。その書が、念仏だけで救われるという教えを生み、天台から独立した宗派を生むことになった。源信は「日本浄土教の祖」と呼ばれるが、それは本人の意図を超えた呼び名でもある。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD942年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →