ゴータマ・シッダールタ
概要
苦の原因と、そこから離れる道を説いた。生没年は南伝と北伝で1世紀近く食い違う。
別名
釈迦、ブッダ、釈尊
関わったできごと(1)
釈迦の悟りBC528年頃(年代に諸説あり) · 当人本文
生没年が、南方に伝わった伝承(南伝)と、北方を経て中国に伝わった伝承(北伝)とで、1世紀近く食い違う。紀元前5世紀から前4世紀の人とする説と、前6世紀から前5世紀の人とする説があり、いまも決着していない。80歳で亡くなったことは、どの伝承もほぼ一致している。

ヒマラヤの麓、いまのネパール南部のシャカ族の出身だった。ゴータマは氏族の名、シッダールタは名で、「釈迦」はシャカ族の聖者という意味の呼び名、「ブッダ」は目覚めた人という意味の称号である。生まれた場所は、母が里帰りの途中に立ち寄ったルンビニーの園と伝えられ、のちにアショーカ王がここに石柱を建て、この地で釈迦が生まれたと刻ませている。
父シュッドーダナは王と伝えられるが、「王」の規模については議論がある。シャカ族は有力者の合議で治める共同体で、父はその代表の一人だったという見方もある。母マーヤーは出産の7日後に亡くなり、叔母のマハープラジャーパティーに育てられた。16歳ほどで結婚し、子ラーフラが生まれたとされる。

城の東西南北の門を出て、老人、病人、死者、そして出家者に出会い、世を捨てる決意をしたという「四門出遊」は、後世に形を整えられた伝説である。ただ、恵まれた暮らしの中で、老いと病と死を避けられないことに深く悩んだことは、古い経典にも語られている。29歳で家を出た。
まず二人の師について瞑想を学び、その境地に達したが、満足できなかった。続く6年、断食や呼吸を止める苦行に身を投じ、骨と皮ばかりになったと経典は伝える。それでも答えは得られず、苦行をやめた。村の娘スジャータの差し出した乳粥を口にしたと伝えられ、共に修行していた5人は、堕落したと見なして去っていった。快楽にふけることも、身体を痛めつけることも避ける。これが「中道」と呼ばれる考えの出発点になる。

ガヤーの近くの菩提樹の下で瞑想を続け、35歳のとき悟りを開いたとされる(釈迦の悟り)。初め、この真理は人には理解されないだろうと、説くことをためらったと経典は書く。やがてヴァーラーナシー郊外の鹿野苑に向かい、かつての5人の仲間に最初の説法をした。
説いたことの中心が、四諦になる。生きることには苦がある。苦には原因があり、それは際限のない渇望である。原因を絶てば苦は消える。そのための道があり、正しく見ること、正しく考えること、正しく語ること、正しく行うことなど、八つの実践がそれにあたる。病を診て、原因を見極め、治った状態を示し、治療の方法を説く医者の診立てにたとえられることが多い。

神への祈りが救いの手段として出てこない。当時のインドでは、バラモンが神々に供物を捧げる祭祀を担い、その力が重んじられていた。経典には神々も登場するが、彼らもまた迷いの中にある存在として描かれる。苦から離れる道は、自分で見て、自分で歩むものとされた。生まれによる身分の上下を否定し、人を尊くするのは生まれではなく行いだと説いたことも、際立っている。
答えなかった問いもある。世界は永遠か、死んだ後に聖者はどうなるのか、と迫った弟子に、彼は毒矢のたとえで応じたと経典は伝える。毒矢に射られた人が、射た者の名や弓の材料を知るまで矢を抜かせないと言えば、知る前に死んでしまう。いま苦しみを抜くことが先だ、という答えである。確かめようのない問いに議論を費やすことを、彼は勧めなかった。

説く相手を選ばなかった。マガダ国の王ビンビサーラが帰依して竹林の園を寄進し、コーサラ国では富豪スダッタが広大な祇園精舎を贈った。商人も、職人も、遊女も弟子になった。人の指を切り取って首飾りにしていたと伝わる殺人者アングリマーラも、出家して弟子になったと経典は語る。育ての母マハープラジャーパティーの願いを受けて、女性の出家も認めた。初めはためらったとも伝えられる。
教団には争いもあった。いとこのデーヴァダッタが教団の主導権を求めて離反し、命を狙ったという話も残る。晩年には、故郷のシャカ族が隣国コーサラに滅ぼされたと伝えられる。

45年、ガンジス川中流の国々を歩いて説き続けた。最後の旅の途中、鍛冶屋の子チュンダの差し出した食事のあとに重い病にかかり、クシナガラの二本の沙羅樹のあいだに横たわって亡くなった。最期の言葉は、すべてのものは移ろいゆく、怠らず努めよ、と伝えられる。遺骨は8つの部族に分けられ、それぞれが塔を建てて祀った。19世紀末、釈迦の遺骨を納めたと刻まれた壺が、シャカ族の故地とされる場所で見つかっている。
本人は何も書き残していない。教えは弟子たちが暗誦して伝え、数百年後に文字にまとめられた。どこまでが本人の言葉かを見分けるのは難しい。それでも、マウリヤ朝のアショーカ王の保護を経て教えはインドの外へ広がり(物語「インドと仏教」)、紀元1世紀には仏教が中国へ、6世紀には仏教の日本伝来と、アジアの広い範囲の文化の土台になった。